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国際連盟

 

国際連盟 世界平和への夢と挫折 (中公新書)
 

きっかけ

国際連盟というと、なんとなくネガティブなイメージを持っています。ウィルソン大統領が崇高な理想のもとに設立を提唱したものの、肝心のアメリカが参加せず、第二次世界大戦の勃発も防げなかった。国際連盟について、中高の歴史の授業で習うのは、このくらいではなかったでしょうか。私も政治学科で国際政治をかじったものの、国際連盟について詳しく学ぶ機会がありませんでしたので、それ以上の知識はありません。そこで、国際連盟に対するネガティブなイメージを覆してくれることを期待して、この本を購入しました。

著者は?

どんな本?

  • 新書ではありますが、重厚感のある本格的な学術書です。国際連盟について、これだけの量の知識をわずか800円+税で得られることは、大変幸せなことだと思います。
  • 本書を通じて、国際連盟についてのポジティブな評価を知ることができました。「国際連盟なくして国際連合なし」とは言い得て妙、国際連盟の見方が変わりました。
  • 国際連盟内部で活躍した日本人がいたことも、新たな発見でした。
  • 日本が常任理事国であったことも、本書を読んで「そういえばそうだった」と思い出しました。
  • 上記のように、読書を通じてさまざまな発見や気づきを得ました。実はこの本、2014年の発売直後に購入したものの、当時は内容にあまり興味が持てず、本棚に眠らせたままだったのでした。それが今回こうして興味深く読めたのは、「国際連盟に対するネガティブなイメージを覆してくれること」への期待を持って臨んだからでした。このことから、専門書を読む際には、何かしらの期待や目的を持つといいのではと思いました。

メモ

  • 国際連盟にとって、1920年代は発展と安定の時代であった。組織的な基盤を整備し加盟国を増やし、難民や伝染病の流行といった自体に取り組み、紛争の解決をはかった。
  • 国際連盟の中で活躍した日本人として、新渡戸稲造、安達峰一郎らがいる。新渡戸稲造(1862〜1933)は「真の国際人」として、国際連盟内部でも、またヨーロッパの一般市民からも人望に厚かった。安達峰一郎(1869〜1934)は、「近代日本が生んだ最高の外交官」と評された。
  • 国際連盟事務局で働いていたイギリス人ウォルターズは、日本代表団の仕事振りを以下のように評価している。

日本の代表団は忍耐強く勤勉であり、他の代表団のよい手本となった。理事会、総会、委員会などで、長く退屈な議論が続くときも日本の代表団は常にそこにいた。石井、安達、杉村、佐藤、彼らの忍耐強い仕事振りが、国際連盟にとって助けとなった。ドイツとポーランド少数民族問題での安達の仕事振りはすばらしいものであった。

  • 1933年、日本は国際連盟を脱退した。しかし、常任理事国日本の脱退に伴う代償は日本だけでなく国際連盟にとっても非常に大きなものであった。
  • 1930年代初頭、各国は問題を抱えていた。だが、国際連盟は安定を迎えた時期であり、国際社会としての連帯感も強まっていた。満州事変は、こうした「国際世論」が関心を示したことで、ヨーロッパから遠く離れた極東の問題でありながら、地域紛争ではなく世界大の問題であると認識された。
  • 集団安全保障は大国の協力があって可能となる。しかし大国の足並みは揃わず、また大国自身がその原則に違反したとき、国際組織が有効な措置をとることは容易ではない。
  • 日本が満州から撤退せず国際連盟から脱退したことは、国際連盟にとって大きな痛手であった。しかし、日本の行動を認めず、多国間交渉による問題解決を試み、その原則を貫いた部分で国際連盟への評価もあった。
  • 満州事変、エチオピア戦争と、国際連盟は大国が起こした戦争を解決することはできなかった。1930年代後半になると、さらにヨーロッパではスペイン内戦、アジアでは日中戦争と続いたが、これら2つの戦争にも国際連盟は効果的な措置をとることはできなかった。
  • 1930年代、常任理事国であった日本、ドイツ、イタリアが次々に国際連盟に反旗を翻し、脱退した。日独伊は国際連盟が掲げた戦争防止、領土保全という根本原則に正面から挑戦するものであり、この三国の「脱」国際連盟は、同時に「反」国際連盟だった。
  • 1946年4月18日、国際連盟総会最後の会合が行われた。ハンブロ議長は、アメリカの大学卒業式が、コメンスメント(commencement/物事の新たな始まり)と呼ばれることを引き合いに出し、「我々にとって今日は卒業式である。国際連盟は解散するが、新たな任務が始まる。これから我々は国際連合を盛りたて国際連合に奉仕する。ここに、国際連盟の第21回かつ最後の総会の閉会を宣言する」と演説を結んだ。
  • 国際連盟を設立した当初の目的は戦争の防止や軍縮であった。しかし、国際連盟は所期の目的を達成できなかった。集団安全保障を機能させる前提であった軍縮は遅々として進まず、侵略、特に常任理事国による侵略が起きたとき、国際連盟は有効な措置をとれなかった。
  • 他方で、国際連盟が、大国が行った戦争に対して、「正邪」の判断を下したことは忘れてはならない。戦争を防ぐことはできなかったが、侵略戦争を認めることなく、加盟国全体が日本を非難し、イタリアに制裁を科し、ソ連を除名したのである。このようにみれば、国際連盟は原則は貫いたがその原則の実行は困難だったと評価することもできる。
  • 国際連盟が残した具体的成果は、社会・人道面にあった。保健衛生、難民、知的協力などの面で、国際連盟は現在につながる制度や仕組みを作った。国際関係の組織化を進めた点で国際連盟は評価できる。
  • 国際関係に普遍的法秩序を樹立したことも国際連盟の遺産として評価されてよい。ほとんどの加盟国は連盟規約を尊重したのであり、連盟規約は守るべきものという認識は広まった。この意味では、国際社会に規範秩序を樹立したと評価することもできる。
  • 国際連盟の活動がヨーロッパ諸国の協力関係を一面では深化させたともいえる。戦後ヨーロッパでは地域統合が進むが、その前史に国際連盟時代の協力があったのである。
  • 国際連盟が残したもう一つの功績は、常設の普遍的国際組織を立ち上げ、それを国際連合につなげたことである