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東インド会社とアジアの海(興亡の世界史15)

 

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

  • 作者:羽田 正
  • 発売日: 2007/12/18
  • メディア: 単行本
 

 きっかけ

「世界史を通史として読みたい」という気持ちは、いつも心の片隅にあります。長い長い歴史を、面白く、わかりやすく。誰かそんな本を書いていないかしらんと期待しつつ、Amazonカスタマーレビューや書評サイトをはしごするのです。

本書は、1つ前の投稿で紹介した「新しい世界史へ」の著者である羽田正氏の著書です。「新しい世界史へ」を読んで、著者の簡潔で分かりやすい文章に信頼を感じていた私は、例によってAmazonマーケットプレイスで本書を手に入れました。

 どんな本?

  • 『興亡の世界史』シリーズは、とにかく表紙が魅力的。ツルツルのカバーに印刷された写真は色鮮やかで迫力があり、しかも被写体が個性的なのです。

    「これは何だろう?」「この人誰?」

    と、好奇心と読書意欲を大いにそそります。講談社創業100周年記念出版」とあるので、講談社が本気出したということでしょうか。編集部はとても良い仕事をしたと思います。

  • 本書は、「新しい世界史へ」(2011年)よりも前の2007年に出版されましたが、すでに「世界全体を一つととらえる歴史」に挑戦したいという著者の意欲が表れています。また、当時まだ「国家」の概念がなかったことを強調しており、「◯◯人」という呼称を避けて、「北西ヨーロッパの人々」や「日本列島に住む人々」などと慎重に表現しています。
  • 本書の要点は、「おわりに」に凝縮されています。忙しい人は、最後の12ページを読むだけでも、世界史の醍醐味を味わうことができるでしょう。

感想

  • 東インド会社ひとつでここまで面白く世界史を語れるものなのか、と感動しました。全部を読み終えた今、私の脳内にある17〜18世紀の世界地図が、地域を超えてヨコに繋がっています。「海の帝国」と「陸の帝国」、「主権国家」と「重層的な統治」などの概念も私の理解度を高めてくれました。これこそ、私が求めていた「わかりやすく、面白い歴史」です。名著のひとつとして家に大切にとっておき、時々読み返したいと思います。
  • 巻頭の写真。私は読書を終えてから、そういえば見ていなかったなと気づいてページを捲りましたが、これがまた私の知らない個性的なものばかりで興味を惹かれます。また、地図も大変良くできていて、モンバサ、マドラス、マラッカなど、知っているつもりで正確にわかっていない地名などを確認でき勉強になりました。
  • 唯一、第7章は『茶の世界史』(角山栄/中公新書)等を読んでおおかた知っていた内容が多かったので、さらっと読み飛ばしました。

メモ

第1章 ポルトガルの「海の帝国」とアジアの海

16世紀のポルトガルによるインド洋貿易の栄枯盛衰。

  • インド洋海域では、異なった宗教を信じる多様なエスニック集団が、共存して競争しながら貿易を行っていた。
  • 16世紀の初め、ポルトガルが新たにインド洋海域での貿易活動に参加した。
  • 1511年、ポルトガルマレー半島のマラッカを征服し、この町にいたアラブ人ムスリム商人全員の殺害を命じた。当時のポルトガル人にとって、アラブ人ムスリムは、キリスト教徒と対立するおぞましい異教徒であり、香辛料貿易の独占を目指す立場からも抹殺せねばならなかった。
  • ポルトガルエスタード・ダ・インディアとムガル帝国は同じインド亜大陸に拠点を置いたが、互いに戦うことはなかった。その理由は、ムガル帝国は「陸の帝国」で、エスタード・ダ・インディアは「海の帝国」なので、両者の守備範囲が異なっており利害が対立しなかったからである
  • ポルトガル人は、胡椒や香辛料の独占販売をもくろんだが、売却した利益のあらかたは多数の要塞や拠点の建設と維持のために消えてしまった。
  • 1581年、スペイン王フェリペ2世ポルトガル国王を兼ねるようになった。スペインはヨーロッパ王家間の戦争、新教徒との戦いに加えて、アメリカ大陸の経営についても考慮しなければならず、東インドの経営に集中することができなかった。

第2章 東インド会社の誕生

オランダ東インド会社の誕生の経緯、組織、目標。

  • 16世紀後半、オランダは、高度な航海技術と豊かな経済力を有していた。加えて、イングランドの私掠船が胡椒を積んだポルトガル船を襲うことが増え、ヨーロッパでの胡椒価格が高騰していた。さらに、北ヨーロッパではポルトガル王室と契約を結んだ商人のみが胡椒の販売を許されており、経済成長著しいオランダ商人には耐え難い状況であった。
  • 1595年に出発したオランダの船隊がジャワ島へ到着して2年後に帰還した。これにより、ポルトガル人の手を経なくても東方との直接貿易が可能だと実証された結果、オランダでは東インド貿易がブームとなった。
  • 1602年、オランダでは6つの貿易会社が合併し、Verenigde Oostindische Compagnie(VOC)が誕生し、オランダ共和国政府から特許状が与えられた。
  • オランダ東インド会社は、政府の許可を得ることなく海外で要塞を建設し、総督を任命し、兵士を雇用することができた、準国家といってもよい存在であった。ただし、オランダという国とオランダ東インド会社は一体ではなかった。
  • オランダ東インド会社は、最初からはっきりとポルトガル人を競争相手とし、これを追い落とすことを目標の一つとしていた。

第3章 東アジア海域の秩序と日本

東アジア海域におけるキリスト教布教と貿易の広がり

  • インド洋海域は「経済の海」、対して東アジア海域は「政治の海」だった。
  • 東アジア海域では、明帝国周辺諸国の間に上下関係ないし君臣関係が存在するという秩序が存在し、一定の影響力を持っていた。
  • ポルトガル人は、インド洋海域と同様に武力を用いて明帝国との貿易を試みた。しかし、巨大な陸の帝国が海をも支配する東アジア海域では失敗に終わった。
  • 日本にやってきたイエズス会宣教師たちは、布教活動の資金を日中間の生糸貿易や日本人の対中貿易の斡旋と仲介が生む利益から得ていた。
  • 九州の戦国大名にとって、ポルトガル人との貿易は儲かるうえに鉄砲に必要な鉛や硝石を入手できるため、大いに魅力的だった。大名たちが争ってキリスト教を受け入れた理由の一つは、領内での布教を許せばポルトガル船が来航し海外との貿易が可能となるためである。
  • 日本におけるイエズス会の布教活動は、貿易活動や軍事的行動と一体となった複雑な性格を持っていた。
  • 16世紀末には、日本人のキリスト教信者が37万~50万人(当時の全人口の3~4%)に達したと言われる。
  • 明帝国の理念的な秩序から離脱した徳川政権は、海上貿易を管理することで権威ある政権として認められようとした。
  • 17世紀~18世紀、東アジア海域の政権はキリスト教宣教師を重大な脅威と受け止め、キリスト教を禁止した。対照的に、インド洋海域周辺諸国ではキリスト教が体制にとっての脅威ではなかった。
  • オランダ東インド会社は、東南アジアでは激しい暴力によって香辛料の取引を独占しようとしていた。一方、日本では徳川政権の命令や要求を素直に受け入れ従った。「政治の海」である東アジア海域では、力に任せて自らの思うままに行動することができず、この海域の秩序に従って最大限の利益を得られるように努力するしかなかった。

第4章 ダイナミックな移動の時代

2つの異なる態度を取る王権

  • 東南アジア史では、18世紀は「華人の世紀」と呼ばれる。
  • 当時の東南アジアや南アジアでは、エスニシティーによる「外」と「内」の区別はほとんどなかった。
  • 17世紀前半、台湾やジャワ島へ多くの華人が商人や労働力として移住した。
  • イラン高原インド亜大陸の間を人々が活発に往来していた。
  • アルメニア人商人は、17世紀を通じて国際貿易商人、金融業者として大いに活躍した。
  • アジアの海には、自由貿易を認めるインド洋海域の王権勢力と、「内」と「外」を区別し「貿易規制」の考え方を採る日本の徳川政権のような、2つの異なった態度をとる王権があった。
  • ヨーロッパ諸国の東インド会社の活動は、アジアの海における人々の広範な移動と密接な関連を持ち、互いに補い合い、助け合いながら展開された。

第5章 アジアの港町と商館

3つの港町の比較 ―長崎、マドラス、バンダレ・アッバース

  • 徳川政権は、長崎で日本の海外貿易全般と人の出入りを完全に掌握し管理した。これは当時の世界で唯一の体制だった。
  • 一方、インド南東部マドラスにおいて、イギリス東インド会社は地方豪族から特権を認められた。また住居も長崎ほどはっきりした区分はなく、いかなる宗教も禁止されていなかった。
  • ペルシャ湾の入り口北側に位置するバンダレ・アッバースでは、エスニックな意味でも、宗教的に見ても、きわめて多様な人々が暮らしていた。また、サファヴィー帝国は貿易を管理しなかった。

第6章 多彩な人々の生き方

  • 17世紀後半以後の日本列島では、法的には混血児に対する差別はなかった。しかし、ポルトガル人を意味する「南蛮人」、オランダ人やイギリス人を指す「紅毛人」という語は当時の差別語で、紅毛人の子というだけで誹謗中傷を受けた。
  • 当時の日本の特徴として、「内」と「外」を区別し、海外からやってくる人を特別視する姿勢があった。
  • イギリス東インド会社の活動は、社員の私貿易や私商人の貿易と密接に関連しながら展開されていた。
  • 1720年代の時点で、オランダとイギリスの東インド会社は、依然としてポルトガル「海の帝国」を継承する存在でしかなかった。

第7章 東インド会社が運んだモノ

  • 北西ヨーロッパで「洋風」の生活スタイルが確立したのは、18世紀末か19世紀になってからである。彼らがそのような生活を送れるようになったのは、東インド会社のおかげである。
  • アジアの産物は、東インド会社の手を経て、アジアの別の地域、アメリカ、アフリカなど世界各地に運ばれていた。アジアのモノによって世界は緊密に結びつくこととなった。
  • 北西ヨーロッパの人々が東方の香辛料を求めた理由は、それが医薬品と考えられていたからだ、と『食の歴史』の編者であるフランドラン氏は言う。
  • 18世紀になると、胡椒など香料以外に、茶、コーヒー、綿織物などが新たに大量に東インド会社から輸入されるようになり、香料の割合は相対的に低下した。
  • イギリスで茶が好まれるようになった理由は、はっきりしない。
  • 東インド会社が運んだモノが、ある地域の人々の嗜好や生活を変え、それに合わせて地球上の別の地域の生態系や土地利用、人々の生活方法が変わっていくことになった。
  • 18世紀前半のインドでは、オランダ東インド会社、イギリス東インド会社、フランス、デンマークオステンドなどの東インド会社が、ヨーロッパ向けの織物獲得をめざして厳しい競争を行っていた。
  • 18世紀末ごろから、イギリスでは産業革命により機械による織物の大量生産が本格化した。これにより、イギリスの織物が海外に輸出されるようになり、それまでとはモノの流れが逆転した。
  • ヨーロッパと日本で、ほぼ同時期にインド産織物のブームが起き、人々がインドの織物を仕立てた服を着て街を歩いていた。
  • 18世紀末までは、北西ヨーロッパ地域がアジアにあこがれ、その文化を摂取していた局面も多くあった。
  • ヨーロッパの人々が蓄積した世界各地の知識をもとにした学術研究が発展して技術革新が進み、アジアとアメリカの豊かな物産が積極的に取り入れられた結果、「近代ヨーロッパ」が誕生することになる。東インド会社は、この近代ヨーロッパの誕生に重要な役割を果たした。

第8章 東インド会社の変質

  • フランスでは、ルイ14世の蔵相コルベールの進言によりフランス東インド会社が設立された。設立が英蘭に比べて遅れた理由は、特定の港町に商業資本の蓄積が見られなかったためである。
  • フランス東インド会社の特徴は、政府との一体化が進んだ会社ということである。
  • 1707年にムガル帝国の皇帝アウラングゼーブが死去すると、インド亜大陸の政治状況はきわめて不安定となり、「陸の帝国」が大きく揺らぎ始めた。それは、ヨーロッパの東インド会社にとって望ましい事態ではなかった。
  • 1740年、フランス人は初めてインド・ポンディシェリ「太守」となった。以後、フランス東インド会社は、インドの政治・軍事勢力間の争いから離れたところに身を置くことができなくなった。
  • 1742年、ポンディシェリ総督デュプレクスは、インドの王侯の軍隊に史上初めて勝利した。この勝利によって、ヨーロッパの人々は、自分たちの軍事力が陸上でも十分に通用することに気づいた。「海の帝国」から「海と陸の帝国」へと変身を始めた決定的な瞬間だった。
  • フランス東インド会社は、1756年のプラッシーの戦いでイギリス東インド会社に敗れた。会社の資金が枯渇し、本国からの支援も十分でなかったフランス東インド会社軍は、1760年にもイギリス東インド会社軍に敗れ、翌年ポンディシェリが陥落した。
  • 一方、イギリス東インド会社は、インドの太守から恩賞としてベンガルの領主の地位を与えられた。これは、イギリスという主権国家に領土を与えることと同義であった。

第9章 東インド会社の終焉とアジアの海の変容

  •  1770年代、イギリス東インド会社財政危機に陥った。
  • 古典派経済学の祖、アダム・スミスは『国富論』の中で東インド会社批判を展開した。彼は、設立から170年以上経つのに未だにこの会社が独占貿易を行っていることを問題とした。また、職員による不正行為を具体的に指摘した。
  • 18世紀が終わる頃、イギリス社会には産業革命の開始自由貿易の主張という2つの変化が生じていた。会社が生まれた17世紀初めの時点では常識だった「独占」貿易という方法は、いつの間にか時代遅れとなっていた。
  • 1833年、イギリス東インド会社は商業活動を全面的に停止した。
  • フランス東インド会社は、1769年にその活動を停止した。
  • オランダ東インド会社は、1799年に会社そのものが廃止された。
  • 19世紀に入る頃、イギリス東インド会社は、インド亜大陸で最強の政治・軍事勢力としての地歩を固めるに至っていた。一方、ペルシアは魅力ある交易場所ではなかった。ペルシアはインド亜大陸オスマン帝国の間に横たわる「真空地帯」として、ヨーロッパ諸国の植民地となることをまぬがれた。
  • 17世紀後半、清帝国による平和と清帝国が求める秩序の下で、東アジア海域における貿易活動は再び活発となった。
  • 一方徳川政権は、清帝国を樹立した満州人はもともと「」であり、日本がこれに従い朝貢する必要はないと考えた。長崎、朝鮮、琉球アイヌを通じた間接的な貿易により、一時は生糸や絹織物を大量に輸入したが、金銀銅の輸出を抑えるため、後に貿易制限を強める政策を採った。
  • 18世紀初め頃までに、日本列島には海外との貿易に頼らなくても自給自足できる社会ができあがっていた。
  • 「国」の領域の「内」と「外」、「外国人」と「日本人」をはっきりと区別し、主権を有する政府が「国」の貿易と対外関係の管理に責任を持つという体制が、18世紀前半の徳川政権で完成した。

おわりに

  •  アジアにおいて、東インド会社の活動をどう受け止めるかは場所によってずいぶん異なる。南アジアや東南アジアでは、植民地化の先兵、残虐な征服者として記憶されている。中国人は、アヘン戦争のきっかけを作った悪辣な商社と理解している。対照的に日本では、ヨーロッパの進んだ文化をもたらした従順で親切な商人たちの会社と肯定的に評価される。これらは、東インド会社が貿易で利益を上げるために様々な手段を採用したことを表している。
  • 産業革命は、東インド会社が大量に輸入したインド産の綿織物の品質と低価格を、何とかイギリスでも実現しようとした人々の努力の結果である。
  • 地球上の諸地域がそれぞれに特産物を持っていた。唯一、北西ヨーロッパには、他地域の人々が欲しがるような特産品がほとんどなかった。
  • 温暖なアジアでは、農作物の価格が安く、北西ヨーロッパほど生活にお金がかからなかったので、工賃も安く済んだ。インドの綿織物が北西ヨーロッパで爆発的に売れた理由は、高品質なのに価格が安かったからである。
  • 北西ヨーロッパの人々がアジアでの貿易活動に参加できたのは、本来別の地域である南北アメリカの銀でアジアの物産と交換できたからである。
  • 17世紀のヨーロッパでは、「主権国家」という考え方が力を持ち始めていた。一方、インド洋海域沿岸や東南アジアの政治的主体は多元的であり、集団間の利害を調整しながら柔軟な統治を行っていた。
  • イギリス東インド会社は、ムガル帝国ベンガルを近代主権国家の一元的な支配の論理で統治しようとした。2つの異なった国家秩序の体系が出会い、強力な軍事力を持つイギリス側の国家秩序が南アジア側のそれを押さえつけた。
  • 東インド会社が運んだアジアの産物とアメリカの銀がヨーロッパに豊かさをもたらした。ヨーロッパ以外の地域が存在しなければ近代ヨーロッパは決して生まれなかった。