きっかけ
ここのところ、イスラーム地域についての本もちらほら気の向くままに読んでいます。しかし、なかなかスピードを上げて読むことができず、わからないところは読み飛ばしたりもしてしまいます。基礎知識がないからです。良くないなぁ、できればなんとかしたいなぁ、と思いながら問題解決を後回しにし続けて、今に至ります。
本書は、段ボール箱に入ったまま数年間、眠っていました。タイトルを見ても、中身が全く思い出せません。これは再読の価値がありそうだと思い、読み始めました。
著者は?
どんな本?
本書の目的は、序章で下記の通り明らかにされています。
- 「中東」という地域が抱えている問題を明らかにすること
- その原因を近現代の国際政治のなかに位置づけること
- 中東の指導者たちの巧みな処世術を解明すること
- 中東の市井の人々が感じ、目指すものを考察すること
そのために、著者が用意した「魔法の絨毯」で、200年という時間と、北アフリカからイランまでを駆けめぐる、と書いています。
感想
- 新書でも丁寧に読むと、こんなにも学ぶことがあるのだなぁ。私はこれまで、好きなところだけつまみ食いをしていたのだとつくづく気付かされました。わかるところだけ読んで、わからないところは読み飛ばす。これでは、せっかく本を読んでも新たな知識を得られません。そのことに気付けたのが今回の最高の収穫でした。
- 特に印象的だったのは、以下の点です。
- 中東諸国が大国に翻弄されるばかりではなく、逆に大国を巧みに利用して生き延びてきたこと
- イスラエル人がすべてユダヤ教徒ではなく、アラブ人が2割もいること。
- ひと口にイスラーム主義やイスラーム運動といっても、中身はさまざまで、全てが暴力に訴えるものでは決してない。
- 最近読んだどの本にも「国民国家」がキーワードとして登場するのですが、本書でもシオニズム思想のところなどで「国民国家」が何度も登場し、またかよ!と苦笑いしました。でも、それだけ「国民国家」が近現代史を語る上で欠かすことのできない概念であることの証左でもあります。
- これまで私は「国民国家」をどちらかといえば良いもの、ポジティブな存在として捉えていました。しかし、西欧とは異なる地域の歴史を覗くと、それが与えたネガティブな影響を知ることとなります。その結果、私は「国民国家」に対する評価を改めつつあります。
メモ
第1章
- Middle Eastを最初に使用したのは、アメリカの戦略理論家マハンである。
- 大英帝国は、アラビア半島東岸を手中にするため、部族長と手を結んだ。部族長は20世紀後半に独立国家を手に入れ、後には石油の富で大金持ちになる。一方、サウジアラビアはほぼ自力で領土を統一し、大英帝国の思惑を裏切って独立に至った。
- 第一次世界大戦後、アメリカは中東の石油資源にアクセスするため、サウジアラビアから石油利権を得た。さらに第二次世界大戦末期には、サウジアラビアからの石油供給をアメリカの死活問題と認識していた。
- 1968年、イギリスはスエズ運河以東から撤退した。これにより、アラビア半島の各国で反王政独立運動が高まった。サウジアラビアは、これに対抗するためにイスラーム開発銀行などを通じてアジア、アフリカのイスラーム諸国へ経済支援を行い、関係強化を図った。
- 第四次中東戦争での石油戦略の成功により、サウジアラビアはアメリカとエジプトなどのアラブ民族主義政権の関係をつなぐ要として、その発言力を高めた。
- 産油国には社会格差が幾重にも存在する。しかし、それが政治的不安定につながるケースは少ない。その理由は、産油国政府が石油収入を国民にばらまいて国民の支持を確保するからである。このような国家を「レンティア国家(rentier state)」という。
- しかし、アルジャジーラやインターネットの普及により、人々の国際情勢や人権問題、格差に対する関心が高まっている。
第2章
- アラブ民族主義とは、キリスト教徒であれ、イスラーム教徒であれ、「アラブ民族」はひとつであるべきとの考え方である。
- 第一次世界大戦後の英仏によるオスマン帝国領土の「小分け」が、アラブ民族主義を生んだ。
- ユダヤ人とはユダヤ教徒のことなので、民族的にはさまざまである。しかし、ヨーロッパが国民国家の時代を迎えると、ユダヤ人はその宗教上のアイデンティティーゆえに「国民」として平等に認められず、差別、迫害が広がった。そこで、ユダヤ教徒であることを国民の要件とする国を作る、シオニズム思想が生まれた。
- シオニズム思想が生まれるまで、中東のユダヤ教徒アラブ人は他の宗教共同体と共存していた。しかし、イスラエルができた結果、イスラーム地域出身のユダヤ教徒(ミズラヒーム)は、アイデンティティーとしての民族を捨て、「ユダヤ人」「イスラエル国民」として生きることを求められた。
- イスラエル人=すべてユダヤ教徒ではない。イスラエル国籍を持つアラブ人は、2008年時点で2割超にまで増えている。
- かつては、異なる民族や部族同士でも、宗教や言葉が同じという理由で共存することができた。しかし、近代国民国家の思想においては、「国民」アイデンティティーが全てに優先するため、かつて共存していた人々を異なる民として切り捨てることとなった。
- 「戦争」から「ゲリラ」、「ゲリラ」から「テロ」へという変化は、イスラエルとアラブの力関係の変化を如実に表している。
- イスラエルに戦争を仕掛ける能力があるのは、国境を接するシリアとエジプトぐらいである。
- イスラエルは、占領地を手放すことで平和を確保するという政策をとっている。
- なぜアメリカはいつも「イスラエルびいき」なのか?その答えは決して自明ではない。
第3章
- 過去の中東研究では、中東は米ソ対立の直接の影響を受けずにきた地域と理解されていた。しかし、冷戦構造とその崩壊が中東の政治に与えた影響は意外に根深い。
- 冷戦が中東に残した禍根の1つ目は、米ソが中東で使った「子分たち」(オサマ・ビン・ラディンなど)である。彼らは冷戦の集結とともに「子分」としての役割を終えた。しかし、あるべきイスラーム共同体建設のための戦いは終わっていなかった。このギャップが、彼らを「冷戦のゴミ」にした。
- 冷戦が中東に残した禍根の2つ目は、超大国操作術への依存から脱却できないことである。かつてはは、生き延びるために英独仏や米ソの間で自分たちのポジションを確保し生き延びてきた。しかし、冷戦の終結により、超大国の対立を利用することができなくなった。そこで、今度は超大国に挑戦する者(オサマ・ビン・ラディン、サダム・フセインなど)が出現した。
- 冷戦が中東に残した禍根の3つ目は、イスラーム世界が超大国に挑戦する「敵」とみなされたことである。国際政治学者のサミュエル・ハンチントンは、西洋文明にとっての次なる敵はイスラームだと指摘した。そして、米ブッシュ大統領はその二項対立を外交政策に適用し、世界を強引にテロと民主主義に分けて「対テロ戦争」を推進した。
- 冷戦時代、イランは西側諸国の対ソ防衛の拠点として重要視された。加えて、「湾岸の憲兵」として社会主義国イラクを見張る立場でもあった。しかし、1979年のイラン革命で親米政権が倒れ、アメリカの対ソ防衛網は破綻した。
- 1979年、ソ連はアフガニスタンの共産主義政権を支援するため、軍事介入した。これについては、米政権がソ連をベトナム戦争のような泥沼の戦争に引きずり込むために軍事行動を誘発したとの見方がある。
- 1980年代、米・サウジアラビア・パキスタンの反共同盟ができあがった。ここに呼び集められ、アフガニスタンで戦士として戦った若者の中に、オサマビンラディンがいた。
- オサマビンラディンは、サウジアラビアの財閥家の六男に生まれ、大学で経営学や土木学を修めたインテリである。
- ソ連軍が1989年にアフガニスタンから撤退すると、「アラブ・アフガン」と呼ばれた義勇兵たちは居場所を失った。
- アラブ諸国では、ビンラディンのような元戦士や急進的なイスラーム主義勢力が国外に逃げなければならない環境が生まれた。彼らは再びアフガニスタンに集結し、アルカイーダと呼ばれるようになった。
第4章
- 1979年のイラン革命は、シャーの専制政治に対して人々が民主化を求めたことから始まった。ホメイニーが指導する革命政権は、希望と熱狂をもって大歓迎された。
- シャーとアメリカが反発の対象となる理由は、イラン内政への過度な干渉に加えて、アメリカ文化がイラン社会を汚染しているという認識、アメリカにイランの価値を認めてほしいと願う心情もある。
- イランは、人口ではエジプト、トルコに続いて3位、面積はサウジアラビアに次いで2位、世界第2位ないし3位の石油埋蔵量を誇る。何より、歴代のペルシア王朝が栄え、シルクロード西方の文化的中心であり続けた。このことから、イラン国民には大国としての誇りや自負がある。
- アフマディネジャドは、特権的地位にある政敵を追い落とし、対外的には断固とした姿勢で臨む、ポピュリスト政治家である。
- 民主化が進むとイスラーム主義が強まるのはなぜか。その答えは、民族主義がその役割を果たさなくなったからである。ヒズブッラーはイスラーム主義を掲げる非政府組織、ハマースは「イスラーム抵抗運動」のアラビア語の頭文字をとって設立された組織である。ヒズブッラーもハマースも、民衆への社会慈善活動を通じて支持を得た。
- イスラーム主義は、穏健から過激、保守から革新までさまざまである。