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アメリカ 過去と現在の間

 

アメリカ 過去と現在の間 (岩波新書)

アメリカ 過去と現在の間 (岩波新書)

  • 作者:古矢 旬
  • 発売日: 2004/12/21
  • メディア: 新書
 

きっかけ

ダンボールに入っていたのは、2004年12月の第1刷です。おそらくは学生時代に生協書籍部で購入したものと思われます。が、まったく内容の記憶なし。情けないですが、ままあることです。

著者は?

どんな本?

「はじめに」より

感想

  • 予想外に面白かった。どれくらい面白かったかは、下記「メモ」の量から推測ください。メモしておきたい箇所がありすぎて、困りました。文字数は最終的に9000を超えました。
  • ユニラテラリズム、帝国、ネオコン学生時代に受講した『外交史』で、先生がよくこれらの用語を使ってアメリカ外交を論評されていたのを思い出しました。その後のオバマ政権、トランプ政権への批評ではこの用語を目にすることがないので、私にとってはこれらが2003年~2004年のアメリカ外交を表すキーワードです。
  • 学生時代の記憶があるおかげかもしれませんが、スッと頭に入ってきました。「東と西」「海洋国家と大陸国家」「理想主義と現実主義」などの二項対立を上手に組み込んでいる点が、理解を容易にしてくれているのだと思います。また、言葉の選び方も巧みで、歯切れの良さを感じます。加えて、難解な理屈を避け、かつ文章の論理展開も整理されている点もよいです。著者にはこの調子でもっと本を書いてほしいな。
  • 1点惜しいのは、本のタイトルでちょっと損をしているというか、名が体を表していないのでは。「過去と現在の間」というタイトルから、私は歴史書のような印象を持ちます。しかし、中身は正真正銘のアメリカ外交に関する専門書。『アメリ外交 過去と現在の間』と2文字付け足すだけでもだいぶ違います。

メモ

1 ユニラテラリズム

  • もともとユニラテラリズムは、あくまでも一定の具体的な外交目標を達成するときに、単独で行うのか、二国間で行うのか、多国間の枠組みで行うのか、といった手段を客観的に表現する言葉にすぎなかった。しかし、現在(2004年当時)では、アメリカ外交の「非協調性」「独善性」への批判や警戒感が込められている。
  • 第3代大統領ジェファソンは、アメリカの将来が、ヨーロッパとの交流のうちにではなく、「西」に向かっての大陸国家、農業国家としての拡大のうちにあることを強調した。一方、彼の宿敵ハミルトンは、イギリス型の海洋国家、通商国家として(「東」に向かって)発展させようとつとめた。
  • 20世紀前半、アメリカ外交の基調はあたかもサイクルのように介入と孤立の局面を繰り返した。このサイクルを終わらせたのが、冷戦の開始であった。以後アメリカは、自らの安全と存続と繁栄を確保するために、世界政治と世界経済への恒常的関与を余儀なくされた。
  • ヴェトナム戦争後、アメリカの国外における役割を再検討し、介入の規模や範囲を、アメリカの国力と国際状況が現実に可能とするレベルに抑えこみつつ、なおアメリカの影響力が劇的に削減され、国際政治に権力の空白が生まれることを避けるにはどうすべきか、という課題が浮上した。こうした課題を代表したのが、ヘンリー・キッシンジャーの外交であった。
  • キッシンジャーのが対外政策は、アメリカ外交史の転機となった。彼は、介入か孤立かではなく、二極、三極、多極のいずれの均衡を重視するかという論点に移行した。
  • しかしながら、この新しい外交観は、米ソ対立を「自由主義生活様式」と「全体主義生活様式」との対決とみなしたトルーマン・ドクトリン」以来の伝統的な冷戦観からの逸脱にほかならなかった。
  • ヴェトナム戦争後遺症は、今日に至るまでアメリカの対外軍事行動の大きな制約要因として働いている。
  • 冷戦の終焉は、アメリカ理想主義外交を終わらせることはなく、むしろ逆に、冷戦の「勝利」はアメリカの国家と国民に自らの理想の正しさ、普遍妥当性を一層強く確信させる結果となった。そのとき、アメリカにとって残された使命は、圧倒的な一極集中的なパワーを背景として、世界をアメリカをモデルとしてつくりかえる以外になくなった。
  • アメリカ外交の理想主義の底流には、反ヨーロッパ的意識がみられる。例えば、ウィルソンの14か条、ローズヴェルトの4つの自由、スエズ危機に際してのダレス国務長官による英仏批判、イラク戦争におけるブッシュ政権の「古いヨーロッパ」批判。
  • ジョン・ヘイ国務長官門戸開放原則を通じて理想を主張した。それは中国の帝国主義的分割の現実を直接に動かす効果はなかった。しかし、にもかかわらず、それは20世紀前半のアメリカの対中政策の中核に据えられ、アメリカの国際的重要性がましてゆくにつれ、やがて現実の力を獲得してゆく。
  • ジョージ・ケナンは『アメリカ外交50年』の中で、20世紀のアメリカ外交の基本的特徴を「法律家的・道徳家的アプローチ」、つまり、自国の特異な価値を基準とし、それによって法律家・道徳家的に世界情勢を判断し、行動してゆく外交手法と指摘した。
  • アメリカは、依然としてきわめて理想主義的なレトリックに依拠した道義主義外交から脱却していない
  • ブッシュ的なユニラテラリズムには、伝統的なアメリカの理想主義が深々と根を下ろしている。第一に、ブッシュ政権による外交論議には、宗教的なメタファーが頻繁に援用されている。第二には、伝統的な善悪二元論のレトリックが頻出する。

2 帝国

  • 藤原帰一によれば、帝国には、軍事的な制圧、他民族支配、植民地支配、経済的優越性、という4つの規定がある。
  • フレンチ・インディアン戦争は、新大陸においてアメリカがイギリス帝国の後継帝国として頭をもたげた戦争であった。しかし、特異であったのは、本来なら帝国が生かして支配すべき先住の他民族を抹殺し、その存在をほとんど無に帰してしまったことである。アメリカは文化的画一性への強い志向をもつ点で、「新しい帝国」であったのである。
  • トマス・ジェファソンの「自由の帝国(empire for liberty)」という規定は、19世紀アメリカ国家の西への拡張を正当化した点で、重大な文明史的役割をはたした。
  • アメリカが人口構成の点で「帝国」の名にふさわしい「世界性」を獲得していった過程は同時に、イギリス的諸制度を核としながらアメリカの環境に適応するなかで徐々に作り上げられてきた独自のアメリカ標準による、文化的平準化、画一化の側面を含んでいた。
  • アメリカこそは、ヨーロッパ文明の正当な後継者であり、しかも腐敗したヨーロッパ文明を正しい歴史の起動に引き戻すという天命までをも負った国民と意識されていた。
  • 「自由の帝国」はそれを限界づける2つの事実に直面した。第一は、インディアンを排除して得られる「無主の土地」が無限ではなかったという事実であり、第二は、「自由コロニー」の半分は、根本的に「自由」と背馳する奴隷制」に立脚していたという事実であった。第一の事実は、アメリカ史の基調を膨張や拡散から、組織化や統合(国民国家の局面)へと転換させる結果をもたらした。第二の問題は、国民国家アメリカの本質を決める選択をはらんでいた。
  • 南北戦争国民国家的統合への戦争(War for nationality)」であった。
  • リンカーンの意図は南部の再統合と国民国家の建設にあった。しかし、リンカーンの暗殺以後、南部は国民国家内の従属地域として位置づけられ、解放されたはずの奴隷たちは二流市民の地位しか与えられず、その後も長く差別と偏見に苦しんだ。その意味では、新しく生まれたアメリカ国家もまた、人種差別の原罪を背負った政治体制としてはじまったといわなければならない。
  • 1898年の米西戦争は、アメリカを「大陸帝国」から「海洋帝国」へと一変させた歴史の分水嶺である。しかし、海外の「コロニー」にはすでにヨーロッパ型の植民地が先在していたため、かつての西部開拓のような手法をとることはできなかった。かくして、20世紀アメリカはアメリカ帝国」の「ヨーロッパ化」を容認すべきか否かという難問に直面することになった。
  • 20世紀アメリカは、基本的対外政策において、「自由」「民族自決権」「互恵的通商」「人権」「平和」「デモクラシー」といった普遍的理念を一貫して前面に掲げた。そこに、これらの諸理念の実現にことごとく失敗してきた近代ヨーロッパの伝統的権力政治に対する原理的な批判を読み取ることが可能である。
  • ローズヴェルト政権は、善隣友好のレトリックをもって南北アメリカ大陸の勢力圏の確保をはかりつつ、同時に国内の孤立主義的世論と妥協しながら、「帝国」からの撤退をはかった。
  • 米ソは互いに相手を膨張主義的な「帝国」とみなした。
  • 冷戦の新しさは、対立する2つの帝国が、ともに普遍的理念に立脚する国家を中核に据えていたことにある。
  • アメリカは、第三世界の「解放」をアメリカ的自由主義の伝統のうちに系譜化する意図を込めた。しかし、ヨーロッパの帝国からヨーロッパの植民者が「分離」する形をとった「アメリカ革命」と、ヨーロッパ諸帝国による植民地支配下の従属的な諸民族が、ヨーロッパ人支配者を「放逐」することによって独立を達成した第三世界の諸革命とでは、決定的に異質であったため、アメリカ的解放のモデルが、アジア、アフリカの新興国家に受け入れられることはなかった
  • 第三世界新興国の中には、国家戦略として非同盟主義」「中立主義を選択する傾向が生まれた。それは、1790年代の弱小新興国アメリカが選んだ「中立」「孤立」政策を想起させる現実主義的選択であった。そこには第三世界とまどいと警戒とが色濃く反映していたのである。
  • アメリカによる共産主義国家の脅威への対抗措置が、くり返し普遍的な理念によって正当化された結果、アメリカの人心においては反共主義と自由や民主主義とは、ほとんど一体等価のものと意識されるにいたった。
  • アメリカは、ソ連と同じく、国内が分裂し、内戦の危機に陥った国々に介入をくり返した。それらは諜報機関が行う「秘密作戦(covert action)」による土着の反共産主義勢力への秘密裏の財政援助や武器供与、プロパガンダストライキ、デモの挑発、テロ、ゲリラ活動、要人の暗殺など合法、非合法あらゆる可能な手段により、特定国家の内政をアメリカに有利に動かすことを目的としていた。それらの秘密作戦ほど、アメリカが表向きに掲げる自由や民主主義や人権といった普遍的理念を世界大に実現するためには、それらの理念に真っ向から違背する手段を駆使せざるをえないという逆説を雄弁に物語る事実はない。
  • 朝鮮戦争ヴェトナム戦争は、共通に以下の経緯をたどった。
  1. アメリカとは全く異なった戦争観にたち貧弱な壮美しかもたないはずの敵ゲリラとの間で戦線が膠着し、
  2. 戦争手段と戦域がエスカレートし、
  3. 戦争の泥沼化がアメリカ人兵士の士気を萎えさせ、
  4. 戦争の人種差別的性格や他民族殺戮的様相が露呈し、
  5. 国内世論を厭戦気分が覆い、
  6. 国際的緊張が高まり、
  7. 同盟国の間にさえアメリカ批判が強まってゆく
  • こうして「自由の帝国」が戦争の目的とした普遍的理念が、戦争の現実としだいに乖離してゆく中で、その威信が大きく傷つき、その支配が揺らいでいった。そして、朝鮮戦争約300万、ヴェトナム戦争約200万と推計される膨大な現地人死者数は、「自由の帝国」「自由世界の盟主」というアメリカのイメージを徹底的に破砕した。
  • これ以後、アメリカの「帝国」的政策は、いかに戦争の長期化を回避し、アメリカ人兵士の犠牲を少数にとどめるかという難問を抱えてゆくことになる。
  • 冷戦の終焉以後、アメリカはその技術力と経済力をもって、どの勢力も絶対に歯向かうことのできない軍事技術を開発した。現代の「アメリカ帝国」を支えるものは、質量ともに他を圧する軍事技術に他ならない。
  • 近年「アメリカ帝国」は、二つの構造的難問に直面している。一つはアメリカ経済の対外依存体質、もう一つは「普遍主義」の衰退である。今後、二つの構造的問題が21世紀前半の「アメリカ帝国」の帰趨を決めてゆくだろう。

3 戦争

  • 合衆国憲法は、戦争に関わる権限をいくつかに分かち、それぞれ異なった機関に委ねることにより、戦争が政府機関の専断によって決められることにあらかじめ歯止めをかけている。
  • 第8節第12項により、軍隊を維持し戦争を行うための予算権は議会に置かれた。これにより、軍の規模や配置や展開を、連邦議会は実質的にコントロールできることになった。
  • 平時においては軍隊の規模や編成を予算によって決め、実際に戦争を始める宣言を行う権限は連邦議会が担い、最高司令官として戦場で米軍を指揮する権限は大統領が担う。
  • 憲法にのっとり議会が開戦を宣言して戦われた戦争は、米英戦争米墨戦争米西戦争第一次世界大戦第二次世界大戦のたった5つだけである。
  • 迅速性と秘密性を要する軍事と、時間のかかる公開的討論を旨とするデモクラシーとの根本的矛盾に実践的に対処すべく、アメリカは大統領に対し、議会の承認や開戦の宣言を待たずに一定の限度内で軍事行動を行う自由を付与してきた。
  • アメリカ社会には、現在も常備軍に対する警戒感や不信感が根強い。その源流をたどると、植民地末期に正規兵がイギリス植民地体制の強権的な維持を目的とする「駐屯軍」「占領軍」の色彩を強めたことに行き着く。
  • 19世紀アメリカ史においてもっとも驚くべきことの一つは、かくも急速にして大規模な国土の拡張を達成した国家が、かくも小さな常備軍しかもたなかった事実である。先住民からの脅威に対しては、巨大な常備の軍事組織も専門的軍事技術も必要ではなく、ただヨーロッパの先進的武器によって武装された民兵で十分対処可能であった。しかし、アメリカの対外的コミットメントの拡大が、常備軍の維持、拡大をあらためておしすすめていくことになる。
  • 朝鮮戦争は、敵を殲滅するか完全降伏させるまで戦いきることをつねとしてきた「アメリカ式戦争」とはおよそ異質な戦争であった。相手も生かしこちらも生かしつつ戦争を続けながら、延々と交渉を続けるといった外交の技術に、アメリカはいちじるしく欠けていた。
  • ヴェトナム戦争後も、アメリカの対外的な介入は跡を絶たなかった。1971年から2000年までの間に、アメリカは全部で63回の軍事行動を海外で行っている。
  • 1990年代のアメリカは、軍事力を維持するために、国民が納得する「新しい脅威」を見定めねばならなかった。その結果、アメリカは90年代を通して、国益との関連がかならずしも明確とはいえない地域紛争や内戦への介入によって、対外関心と国際的プレゼンスを誇示してきた。

4 保守主義

  • ネオコンの直接の起源は、1990年代末に結成された「新しいアメリカの世紀のための計画委員会(PNAC)」にある。委員会の主要なメンバーにとっては、80年代レーガン期の対外政策こそが理想であり、クリントン外交は個別の危機にその場しのぎに対応する以外に策のない迷走であった。
  • 2004年選挙におけるブッシュの再選、議会選挙における共和党の勝利は、アメリカ国民の多数が「ネオコン」路線を追認し、その継続を選択したという意味合いを含む。
  • アメリカ史の中で「ネオコン」を位置づけるにあたり、以下の点に留意すべきである。
  1. アメリカの保守主義は長い歴史をもっているが、何が保守主義かについてはきわめてあいまいである。
  2. アメリカの保守主義は、リベラリズムとの対比において語られてきた。保守対リベラルの対比がどのようにして生まれ、変化してきたのかをアメリカ史の展開にそくして考えなければならない。
  3. 対外政策にかかわる言動が目立つ保守は、アメリカ史の中では最近までみられなかった現象である。
  4. ヨーロッパ的思考と、ヨーロッパ的伝統に対する二律背反的な姿勢。
  5. ひとくちに保守主義とはいっても、実に多層的な、しかもそれぞれが複雑に入り組んだ性格を持つ思想である
  • 第二次世界大戦後、アメリカでは自国こそが世界の変革に向けて突き進んでいるという自負がはぐくまれ、アメリカ・リベラリズムは対内的にも対外的にも絶頂期にあった。こうした進歩的な感覚にブレーキをかける保守主義のような後ろ向きの主張・信条・政策は不人気であった。 
  • アメリカは当初より、封建制から離脱した自由な個人によって構成された社会であった。いわば、アメリカは封建制度の段階を飛び越えて、はじめから自由主義社会として生まれた。そのため、身分社会への固執や反省的な思考は不在だった。
  • 南北戦争後の新しい産業主義的階級社会の登場は、「競争」と「放任」そのものの維持を目指す保守主義を創出した。
  • イギリスの哲学者ハーバート・スペンサーが主張した社会ダーウィン主義は、急速に勃興しつつあった産業社会の現状を肯定するイデオロギーとして大流行した。社会ダーウィン主義は、成功と失敗を社会環境への適応能力の有無の客観的なものさしであると示唆することにより、成功につきまとう後ろめたさを払拭し、失敗の原因を失敗者自身の無能力に帰する論理である。まさにそれは、資本主義的市場社会における「勝者」のための現状擁護論であった。
  • 20世紀前半に活躍した歴史家による「ハミルトン対ジェファソン」の思想的対抗の再解釈により、「保守」と「リベラル」の意味変容が起きた。新しい「リベラル」とは、積極国家、行政国家が政治権力により人民の「自由」の確保をめざす政治的立場である。これに対し、保守主義とは政治権力に介入に反対する自由放任主義であり、エリートの既得権擁護のイデオロギーとして現代的保守主義の中核を占めることになる。
  • 冷戦下、アメリカではアメリカに伝統的な諸価値、とりわけ「自由」、「民主主義」、アメリカ的政治体制、アメリカ式生活様式を丸ごと保守しなければならないとする保守主義が生まれた。この新しい保守主義は、ニューディール以前の保守もリベラルもともに併呑し、従来の「保守−リベラル」対立を矮小化した。
  • ネオコン」の世界民主化プランは、この新しい保守主義の衣鉢を継いでいる
  • レーガン政権の成立は、いくつかの保守主義の潮流が連合した「保守革命」だった。新右翼(反共、反公民権運動、反アファーマティブ・アクション、反黒人感情、福音主義的宗教感情) 宗教右翼(性的倫理や性差、性役割の保持、宗教感情の涵養、反進化論教育の徹底) ③エリート保守主義(小さな政府、市場重視、供給重視経済、規制緩和) 新保守主義(反ソ、反共、反国連、反ジョンソン大統領、善悪二元論

5 原理主義

  • 現代のアメリカ社会には、3つの原理主義が大きく根を張っている。①デモクラシー原理主義 ②市場原理主義 ③宗教原理主義
  • 原理主義者」という言葉には、テロのような暴力的な手段を用いてでも自己の信仰を貫く、頑迷な宗教信仰者や反近代主義者というイメージが固定しつつある。
  • 1979年のイラン革命に際して、「原理主義」という言葉がイスラムの過激な運動を指すものとしてしきりと用いられるようになった。いまやアメリカの国民意識のうちでは、イスラム原理主義=反米主義=テロリズムという固定観念になっている。
  • 同じ1970年代に、アメリカ国内でもキリスト教の「原理主義」的信仰が復興期を迎えていた。それは、1960年代以来のカウンター・カルチャーに対する反動であり、ウォーターゲート事件ヴェトナム戦争の敗退に象徴される、アメリカの道義的衰退に対する危機意識の表れであった。
  • 福音主義とは、人類を含め全宇宙の万物を神の被造物とする聖書の一字一句を真実と考え、これを信仰の基礎に置く考えである。チャールズ・ダーウィンが提唱した進化論は、その信仰を破壊しかねない衝撃であった。
  • 第一次世界大戦後、保守的なテネシー州で進化論を教えた学校教師が、進化論教育を禁じた州法違反で訴えられた裁判(進化論裁判)を決定的な契機として、原理主義的な福音主義大きく退潮した。この裁判は一面で、北部の世俗的でリベラルな世論が、南部の保守的で遅れた宗教観を批判するという構図で戦われたものといえる。南北戦争で敗北した南部は、この裁判でふたたび文化的にも敗北したのであった。
  • 政治と原理主義との関係に決定的に重要な意味をもつ存在は、ジョージア州出身の民主党大統領ジミー・カーターである。カーターは、「生まれ変わり」(自堕落な時期を経て、聖書によって目覚め、信仰を堅くし、キリスト者として再生したという意味)を自称した最初の大統領となった。その後、レーガンも、クリントンも、ブッシュも、「生まれ変わり」を自称している。大統領による「生まれ変わり」の強調は、福音主義的信仰を政治の世界に導入することアメリカがあらためて政治の基礎に福音主義キリスト教を据え直したことを意味する。
  • アメリカは拡大、移動する流動社会であったため、伝統を定義することが困難である。それは、危機に直面したとき人びとが共通に思い出し、そこに戻るべき過去をもたないということである。そこで原理主義者が依拠するものは、変わることなく存在し続けている聖書以外にない。そして、アメリカの政治もまた戻るべき、保守すべき伝統を欠いている。そこで危機に際して戻るべき原点は、独立宣言や合衆国憲法など少数の成文のテキストである。それらのテキストが規定する政治原理は、個人が社会の土台であり、個人の自由や自治がつねに重視される民主主義である。すなわち、危機に直面して不易の原理に戻ろうとする点で、アメリカの宗教と政治文化は、同じパターンを示している
  • 両者が驚くほど似通っている理由は、アメリカが、超歴史的あるいは脱歴史的な近代的啓蒙国家として始まったことに起因している。
  • アメリカの原理主義に共通しているのは、原理を構成する根本単位はすでに完成しており、普遍妥当性をもち、どこにでも適用可能であるという発想である。