本・ゲ・旅

歴史や政治を中心に本の要約を紹介します。たまにゲームレビューも。

成熟のイスラーム社会

 

きっかけ

引き続き、イスラームの歴史や社会への関心・好奇心から、本書を選びました。

著者は?

感想

  • 本を読むごとに、世界史の知識が補われていきました。例えば、オスマン帝国が600年も続いたということ。その理由の一つが「懐の深さ」であったこと。サファヴィー朝も多様性を尊重した国家であったことなど。それはまるで、私の脳内の世界史パズルに足りなかったピースが一つ、また一つとはまっていくような快感でした。言い換えれば、私の世界史の知識が依然として西洋政治史中心に組み上がっているということでもあります。かつての私にとっては、オスマン帝国サファヴィー朝ペルシアも、世界史用語集に登場するキーワードの一つでしかなかった、という事実に気が付き、私は恥ずかしさを覚えました。
  • 高校時代、私は「オスマン帝国」ではなく「オスマン・トルコ」と習ったように思います。ちょうど本書が出版されたのと同時期に高校世界史を学んだのですが、受験世界史ではどちらが主流だったのかなとふと気になりました。これ以外にも、「メフメット」「バヤズィト」「サーサーン朝」など、私が習ったのとは微妙に表記の異なる固有名詞が登場しました。現在の学校教科書ではどのように表記されているのでしょうか?その変遷を辿ってみたら面白いかもしれません。誰か調べてくれないかしら。
  • 本書はすでに中公文庫に収められ、現在も大型書店で手に取ることができます。ある日、私は丸善岐阜店で本書の中公文庫版を実際に触ってペラペラとめくってみました。そこで気が付いたのは、歴史書のような図表入りの本は、ハードカバー版のほうが断然読みやすいということです。具体的には、①字が大きい ②図表が大きくてカラー刷り の2点がその理由です。逆に、文庫版の利点は、その小ささ、すなわち持ち運びや収納に便利ということですが、今の私にとっては、小ささよりも読みやすさのほうが重要なので、これからもハードカバー版を探して読むようにしたいと思っています。ハードカバー版のほうが安いことも多いし。
  • またしても登場した「民族国家」「国民国家」の概念。これが、この地域をいかに変えてしまったか。どれほどの悲劇が生まれたか。日本(人)はこの概念に振り回された経験がないため、どうしても理解が十分に及ばない可能性があります。私は、より多様な地域の歴史を知ることで、その無理解を乗り越えられるように努めます。

メモ

プロローグ

  • イスラーム世界を全体として「イスラーム世界」と捉える視座はもちろん重要だが、その部分、部分に注目し、互いの相違点を明らかにする視点も忘れてはならない。
  • とりわけ、オスマン帝国の場合には、その歴史をイスラーム世界史という枠組みの中だけで検討すると、その本質を見誤りかねない。
  • 「成熟のイスラーム社会」の実態を知ることは、イスラーム世界史の近現代史理解の鍵となる。

第1部 暮らしのなかのオスマン帝国

  • ユーラシア大陸は、常にその内奥部に位置する草原地帯を震源としてゆり動かされ続けてきた。
  • 16世紀の国際関係は、オスマン帝国を中心にながめると、ハプスブルクオスマン帝国との対決を軸としている。
  • オーストリアハプスブルクにとって、オスマン帝国の脅威は、宗教改革派への妥協と「ヨーロッパ世界国家」建設の夢と挫折とを強いた。反面、これと対抗するために近代の国民国家への道を歩ませる、という功罪あわせもつ外圧として作用した。
  • オスマン帝国は、遠く東欧にのびた国境への軍隊の移動によって多大な支出を強いられ、それがオスマン帝国弱体化の一因となった。
  • オスマン帝国は、当時宗教的にきわめて非寛容であったヨーロッパ諸国とは比較にすらならないほど寛容な国家であり、その下で、人びとは自由に交流した。
  • オスマン帝国では、およそ12歳から20歳の少年を、イスラームに改宗させたうえで、トルコ人の家庭に預け、トルコ語ムスリムとしての生活習慣とを身につけさせた。この制度は、トルコ語デヴシルメと呼ばれた。
  • 彼らは奴隷身分とはいえ、スルタンの側近に仕え、エリート集団としてのさまざまな特権をあたえられた。とくに優秀な少年は、高級官僚の頂点である大宰相にまで登り詰めてオスマン王家の娘婿となる者も少なくなかった。
  • オスマン帝国は、身分秩序のもとに固く縛られていた当時のヨーロッパ諸国とは対照的な開かれた社会であった。
  • オスマン帝国の中央官僚機構は、デヴシルメ出身者とウラマーとの二人三脚であった。
  • オスマン帝国最大版図が実現したのは17世紀初頭である。
  • 都市では、カフヴェ・ハーネ(コーヒーハウス)で男たちがコーヒー談義を楽しみ、憩いの場、情報交換の場として普及した。女たちは家庭でコーヒーパーティを開き、週に一度はハマームで入浴や飲食を楽しんだ。
  • ドゥブロヴニクは、「オスマンの平和」を享受してバルカンでの通商を独占し、莫大な利益をあげることができた。
  • オスマン帝国の貿易政策は、輸入奨励型であって、当時のヨーロッパ諸国が追求した重商主義政策とは対極に立つものであった。カピチュレーションとよばれるこの通商特権による貿易が、ヨーロッパ諸国とのつきあいの基本であった。
  • ヨーロッパや地中海におけるオスマン帝国の輝かしい征服活動と軍事的勝利を根底で支えたのは農民生産力であった。
  • オスマン文化は、宗教や哲学といったソフトウェアを生み出したギリシアにアラブを、建築、土木、軍事技術といった実践的なハードウェアを作り出したローマにオスマンをなぞらえることができる。
  • オスマン絵画は、写実的現実性にあふれている。
  • オスマンの平和」により16世紀を通じて地中海世界全域において人口が増加した結果、農耕作地の不足、農村から都市への人口移動、イェニチェリ軍団や官僚組織の肥大化と財政の圧迫が生じた。また、スペインによって南米の銀がイスタンブルなどに流入した結果、貨幣価値が下落し、物価が急上昇した。
  • ヨーロッパとの貿易が深まるにつれて、さまざまな民族・宗教・言語に属する多様な人びとをひとつに熔解せしめたイスラーム世界帝国の坩堝に亀裂が生じ始めた。
  • 19世紀半ば以降、「近代化」に名を借りた諸改革を通じて中央集権支配を回復し延命を図ろうとするオスマン王家の思惑を利用しつつ「帝国の遺産」を分割しようとする列強の侵略の前に、イスラーム世界帝国としてのオスマン帝国普遍性は失われた。その結果、人びとの生活は分断され、破壊され、これまで経験したことのない民族的・宗教的対立の嵐の中でオスマン帝国もまた滅亡する。
  • 18世紀以後、懐の深いイスラーム世界帝国のもとで、それぞれの地域に固有の構造が形作られ始めた。しかしそれは、そのまま近代的な国民国家の形成につながるわけではなかった。オスマン帝国にとって「一番長い世紀」となった19世紀の政治過程は、帝国みずからの手によって、あるいは列強の干渉によって、そうした地域統合を破壊し、再編成することによって「中東諸国体制」を人工的に作り出す過程であった。バルカンについても同じことがいえるかもしれない。

 第2部 サファヴィー朝の時代

  • 「サファヴィー」は「サフィー」のアラビア語複数形で、「サフィー家の人びと」の意味である。
  • 「イラン」という言葉は、「アリアン」すなわち「アーリア系の人びと」という語を起源とする。
  • イスファハーンは、アッバース1世が1597年に都として定め、以後18世紀の前半にサファヴィー朝が滅亡するまでの130年近く、この王朝の中心都市として「イスファハーンは世界の半分」とうたわれるほどの繁栄を誇った。最盛期の人口は約50万で、17世紀の当時では世界有数の大都会だった。
  • サファヴィー朝時代のイスファハーンでは、原則として信じる宗教によって人びとの住む場所が異なっていた。イスファハーンに住む人の大半はイスラーム教徒、次いでキリスト教徒が多く、他にユダヤ教徒ヒンドゥー教徒ゾロアスター教徒も住んでいた。
  • ペルシア語は、イスラームを奉じるアラブ人が7世紀半ばにサーサーン朝ペルシアを征服した後、徐々にでき上がったもので、アラビア文字で書かれ、アラビア語の語彙が大量に使われている。サファヴィー朝の時代には、公文書はすべてペルシア語で書かれ、イスファハーンの町で話す人が一番多い言葉だった。
  • 宮廷ではトルコ語がもっとも普通に話されていた。大部分の宮廷関係者は、トルコ語とペルシア語のバイリンガルだった。その他に、グルジア語、アルメニア語、インドの言葉、ヨーロッパ諸語を話す人びとがいた。
  • サファヴィー朝の成立には、トルコ系遊牧民キジルバシ(赤い頭)の軍事力が大いに貢献した。しかし、彼らは優秀な軍人ではあったが、行政実務には疎かった。そこでイスマーイールが目を付けたのが、タージーと呼ばれるイラン系の人びとである。軍事はトルコ系遊牧民、行政はイラン系として移住民という二本の柱が国家を支えた。
  • シーア派とは、アリーとその子孫だけがムスリム全体の指導者となり得る、と考える人々のことである。その教義の特徴は、アリーとその子孫には神秘的な超能力が備わっており、この力によって彼らだけが『コーラン』の真の意味を解きあかし、ムスリムを正しく導くことができると考える点である。
  • 1587年に王位に就いたアッバース1世は、西からオスマン朝軍、東からシャイバーニー朝が攻め込んでくる危機を乗り切り、王朝の最盛期を現出させるに至った。アッバース1世は新しく組織され式盛んな軍隊を使ってキジルバシを抑え込むと、次いで国外に眼を向け、シャイバーニー朝やオスマン朝と戦って領域を回復した。さらに、国内のインフラを整備し、外国との貿易を奨励した。アッバース1世の時代は、サファヴィー朝国家の国際化と多民族化の時代だったのである。
  • 世界史的に見て大切なことは、サファヴィー朝の王やその周辺の人びとに、これら多様な人びとを宗教的・言語的に一つにまとめていこうとする意志が見られない、ということである。サファヴィー朝国家が一つの「民族国家」または「国民国家」だったとは決して言えず、また国家としてのサファヴィー朝が「民族国家」への方向を目指していなかったことも確かである。
  • サファヴィー朝オスマン帝国が採った「柔らかい専制は、前近代中東の人びとが編み出した共存のための智恵だった。