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民族と国家

 

民族と国家―イスラム史の視角から (岩波新書)

民族と国家―イスラム史の視角から (岩波新書)

  • 作者:山内 昌之
  • 発売日: 1993/01/20
  • メディア: 新書
 

きっかけ

引き続き、イスラームを理解するために購入しました。

著者は?

どんな本?

  • 冷戦の終わりは、新たな緊張の始まりでもあった。湾岸戦争ソ連解体、ユーゴスラヴィアの分裂と内戦を通して、民族と国家をめぐる未曾有の難問が浮かび上がってきた。しかも、どの紛争にもイスラムの影がつきまとう。民族問題とは何か。解決への糸口はあるのか。イスラムの歴史に生きた人々の知恵と試行錯誤を手掛かりにして考える。

感想

  • ここ最近の読書で、ヨーロッパ流の国民国家の押しつけが中東情勢をおかしくした、ということは理解していました。本書は、その押しつけを個別具体的に詳説するものです。
  • 以前の私であれば、「混乱する中東情勢」の原因は、イスラムという宗教が原因ではないかと決めつけていたことでしょう。しかし、本書をじっくり読めば読むほど、私の早とちりが間違いであることが判ってきます。混乱の原因は、ナショナリズムナショナリズムによってどれだけの不幸が生じたかが、ようやくわかってきました。
  • かといって、今さら国家の枠組みを取り払ったり、オスマン帝国を再興したりもできないわけで、どうしたら中東を平和な地域に変えていけるのか、気の遠くなるような困難な課題であると認識しました。
  • 文章そのものは決して難しくないのですが、少しこなれていないというか、私のような読解音痴にもわかるような明快な構成ではないため、「要するに何を言いたいのかな・・・」「要点は何なんだ・・・」と悩みながら読む必要がありました。
  • 私の地理や歴史に関する知識が乏しいために、理解が及ばず、読み飛ばさざるを得ない箇所が結構ありました。
  • 「~ことは言うまでもない」「~に他ならない」といった強い断定の表現がしばしば用いられます。しかし、これも私の理解力のせいですが、そこに至るまでの説明が腑に落ちていないため、強い断定に唐突感があり、「えっ、そこまで言い切るの?」と戸惑いました。

メモ

  • ビザンツ帝国の北方には文明発展の低い段階に満足する人びとが身を寄せあっており、イランを越えて東方に広がる地域には偶像崇拝の劣った徒がおり、南方には「黒い野蛮人」がいる、というのが中世にムスリムが抱いた世界観であった。
  • ムスリムにとって重要なのは、真の歴史がイスラムの興隆とともに始まるという信念であった。ムスリムたちはイスラム化以前の歴史をジャーヒリーヤ(無明)」と呼んだ。
  • ムスリムたちは宗教を基準にして、同胞と異邦人とを区別した。
  • オマーンは、アラブのなかでもオスマン帝国の支配を免れた珍しい一例である。
  • イエメン国家の歴史で重要なのは、オスマン帝国に服属した以外に、他のいかなる西欧勢力にも屈したことがなかったことである。
  • オスマン帝国は、三大陸にまたがる多民族国家を統治するために2つの支柱に依拠した。第一は、実力本位主義による人事の登用と昇進のシステムである。第二は、啓典の民寛容イスラムの理念と伝統である。
  • ミッレトとは、同じ宗教を信奉する人間集団とくにイスラム共同体を指す言葉である。オスマン帝国とは、多民族・多宗教集団をスルタン=カリフ制の下で統合するような、ミッレトの複合体ともいうべきコスモポリタンな国家だった。
  • 1699年のカルロヴィッツ条約で、オスマン帝国ハプスブルク朝にハンガリートランシルヴァニアを割譲して、歴史上初めて敗戦国として講和を結んだ
  • 16世紀のオスマン帝国は、ユーラシア大陸西部とアフリカ北部を扼する世界最強の超大国であり、イスラム国家論を体した理念の帝国でもあった。
  • フランス革命は、イスラム世界にとって未知のイデオロギー、すなわちパトリオティズムナショナリズムによる挑戦となってムスリムの信仰の基盤をおびやかした。
  • アラブ人によるオスマン帝国への挑戦は、外縁部から生まれた。その最初の兆しは、18世紀半ばにアラビア半島で起きたワッハーブ派運動に見られる。このワッハーブ派運動は、第1次(1745-1818)、第2次(1842)を経て、アラビア半島の大半を統一することに成功する。この「アラブの統合」は、植民地主義によるアラブ分割とは何の関係もない
  • ムハンマド・アリーが支配したエジプト国家の性格は、近代化論を信奉するエリートに支えられた「官僚軍人寡頭型支配」であった。
  • エジプトは、多民族・多宗教・多言語のオスマン帝国以上に、愛国心を涵養する土壌として成熟しきっていた。エジプトが国民国家として独自の道を歩むにあたって、思想的に大きな役割を果たしたのがアルタフターウィーである。かれはヨーロッパの進歩の秘訣を愛国心に求めていた。かれの功績は、エジプト人にたいして、エジプトに数千年の歴史が実在したことをわかりやすく説き、エジプト人アイデンティティの確立に貢献したことである。
  • オスマン帝国にとっての経済面での試練は、国際交易の大動脈が地中海ルートから大西洋・インド洋ルートに転換したこと、新大陸からの大量の銀の流入などによって始まった。
  • オスマン帝国が政治的に凋落してイスラム文化も退潮するにつれて、首都のイスタンブルでも、非ムスリムの特権的な金融業者が帝国の財政を左右する力量を蓄えるにいたった。こうして、キリスト教徒やユダヤ教徒の有力名士層とムスリムとの間に対抗関係が生み出され、バルカンの複雑な民族問題の原型がつくられた。
  • 第一次世界大戦が始まると、オスマン帝国では、アラブ=トルコ二重帝国の創立や、トルコとアラブの連邦制の構想も生じた。しかし、大戦終結と帝国の領土喪失により、連邦構想は消滅した。
  • 肥沃な三日月地帯に新たにまったく人工的に導入された「植民地委任統治型支配」は、シリア、トランス・ヨルダン、パレスチナレバノンイラクでいずれも地元住民との軋轢をいやがうえにも増すはめになった。
  • 1948年のイスラエル独立が、アラブの人びとに広い「連帯」の必要性を教えた。
  • カウミーヤとは、西欧植民地主義によって恣意的に線を引かれたことを根拠に、肥沃な三日月地帯のアラブが中心となって統一アラブ国家をつくるべきだとするナショナリズムである。
  • ワタニーヤとは、欧米に伍す国民国家に脱皮しようとする、国民国家への帰属を重視するアイデンティティである。
  • アラブの一体性をふりかざしながら、自らは決して特権を捨てようとしないイラクやシリアに見られるアラブ・ナショナリズムは、レトリックの世界でインタナショナリズムユートピアを描いた旧ソ連や旧ユーゴスラビア共産党の過去とさして変わりがない。人口上では多数派になる人びとを、政治的には少数派の地位にとどめておく格好の大義名分になった。
  • ひとたび国家が境界とシステムとをともなって組織されると、それに見合った国家の利益が既得権として必ずつくられる。そして、国益がさらに国民の利益を守り、それを発展させる力として作用させる「構造」を生み出す。そして、その国家のなかに住むエリートから一般の市民に至るまで、国民の間に「構造」と自分たちを同一視するアイデンティティを発達させる。この「構造」と国民との関係の同一化という「神話」を発達させるには、数十年ですむ。
  • スンナ派ムスリムにとって、神にかわって人民が主権の源泉になるという考えは理解を超えていた。
  • 多数決による支配の原理は、ある国民国家のなかに二つ、あるいは三つ以上の民族が存在して、それぞれの権利を強く主張すると十全に機能しない。民族の人口数という自然要因によって多数派の状態が固定されてしまい、コンセンサスの意味がこわされてしまったところに、多数民族による少数民族への圧迫が生まれる。そうなると、多数派が「良識あふれし賢き側」とはいえなくなる。
  • 現在の中東が陥っている不幸な状態は、民族と国家に関するイスラムの伝統的な理解が、人民主権国民国家アイデンティティを至上の価値とする、近代ヨーロッパから世界に広がった政治経済のシステムに、うまく対応できなかった結果である。
  • 少数民族や少数宗派が歴史の偶然や非合法な手段に訴えて、国家の公権力を握るような事態ががおきると、人口数で圧倒的にまさる多数派を抑える方法は、テロルや極度に誇大化した警察力、はては軍事力にたよることにならざるをえない。その例が、アサド大統領のシリア、サダム・フセイン大統領のイラクである。
  • ミッレトでは隠されていた多様性は、社会生活の多彩なアスペクトを政治化させ、民族と宗教・宗派間の紛争を多発させた。
  • 現在でも中東イスラム世界の国家に欠けているのは、理念としての自由と、制度としての民主主義である。