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近代イスラームの挑戦

 

 

どんな本?

感想

  • 江戸時代のオランダ風説書や、明治初期の福沢諭吉らの著書を引用して、当時のイスラームの様子を伝える手法が斬新で面白い。また、当時の日本の知識人が正確に国際情勢を把握していたことがうかがわれ、興味深い。
  • 良い意味で、歴史小説のようであり、話の上手い講演を聞いているようでもある。要するに、飽きさせない。

メモ

1 イスラームのいちばん長い世紀

  • 十字軍の時代の12世紀から18世紀にいたるまで、ヨーロッパ人はムスリムのいない新世界に進出方向を定めた。ヨーロッパ人は、指呼の間にある地中海やカザフ・ステップを越えて中東のイスラーム中心部と接するよりも、はるか遠方のアジアとアメリカに進出するほうを選んだのである。
  • オスマン帝国は、3大陸にまたがる人類史上屈指の巨大帝国であり、16世紀の最盛期には地中海の4分の3を制覇した。
  • イスラームとヨーロッパとの力関係は、オスマン帝国が1682年から99年にかけてハプスブルクオーストリア神聖ローマ帝国)との戦争に敗北した後に、急激に変化した。
  • イスラームを運動の文明、中継の文明と呼んだのはフランスの歴史家フェルナン・ブローデルである。
  • イスラームの花と果実は17世紀からしだいに衰えをみせていたが、19世紀になるとイスラームの樹木そのものが老衰したことがだれの目にも明らかとなる。まず、遠隔地貿易の支配権がヨーロッパの新興海洋諸国に奪われたので、イスラーム世界の富も徐々に枯渇しはじめた。十字軍と対等以上に競いあった軍事力は、ヨーロッパの近代化、とくに軍事技術の革新に追いつけず、少しずつ弱体化していた。ヨーロッパのイスラーム世界進出は、資本主義の浸透や近代化による伝統的なネットワークを変容させたばかりでなく、それを破壊さえした。
  • イスラームの近代というのは、ヨーロッパによる誘惑との戦いでもあり、文化摩擦をいかに解決するのかという課題のはじまりでもあった。その結果ムスリムは、ウンマ(共同体)の存続をはかるために、前近代のイスラームにおいて政治や文化の核だったシャリーアの再検討と改革を迫られた。
  • 近代のイスラーム世界が共通して苦悩したことが一つある。それは、欧米の法体系や領事裁判権の導入などを通して、まったく異質な西欧の法観念をもちこむ作業と、シャリーアへの信頼とは併存できるのかという深刻な苦悩であった。

2 ナポレオンとムハンマド・アリー

  • オスマン帝国とフランスは、ハプスブルク朝の神聖ローマ帝国という共通の敵に対処するため、友好関係を基本的に維持した。
  • イスラーム世界は、はじめのうち軍事的な敗北を喫するだけだったが、まもなく文化や経済など広い範囲で西欧キリスト教世界の本格的な挑戦を受けるようになった。これが〈西洋の衝撃〉と呼ばれる外からのインパクトである。
  • ナポレオンのエジプト侵入は、西欧キリスト教徒の国際システムの原理を一挙にムスリムたちに強制しただけでなく、オスマン帝国の面子をつぶすものであった。
  • ナポレオンのエジプト遠征は、第一に、オスマン帝国だけでなくアラブからインドにいたるイスラーム世界をヨーロッパの国際関係に深く結びつけた。第二に、ナポレオンのエジプト遠征は、オスマン帝国イスラーム世界の独特な多元的構造にひびを入れた。第三に、ますます高度化するヨーロッパの軍事技術と持続的に対抗するには、イスラームの軍事力があまりに貧弱なことを教えた。
  • トクヴィルは、自由と民主主義について思索にふけりながら、イスラーム世界の植民地化を政策的に提言し、フランスの植民地経営を正当化した。
  • 福沢諭吉は、トルコやイランを「支那」とならんで「未開」の「最も著しきものなり」と分類した。

3 東方問題の開幕

  • 東方問題とは、近代化を進めるヨーロッパ諸国がオスマン帝国の領域内部に影響力をおよぼそうとしたときに、そこでオスマン帝国をまきこんだヨーロッパ諸国感の競争・対立・抗争あるいは協調・同盟などの諸局面を一括する歴史用語である。
  • 露土戦争(1768〜1774)に破れたオスマン帝国にとって最大の屈辱は、イスラームの同信者のクリム・ハーン国に対する政治的保護権を放棄したことである。
  • オスマン帝国では、アーヤーンと呼ばれる地方の名望家層が法や政治をとりしきるようになった。アーヤーンは、協調と離反という2つの性格をもっており、当局には両刃の剣であった。
  • フランス革命は、オスマン帝国を除く国際システムにとっては、王朝や帝国の<国体>を危うくする脅威であった。しかし、オスマン帝国は、この革命を政変としてとらえ、その波動を戦争と外交のパワー・ポリティクスに利用しようとした。
  • セリム3世は、フランスを頼りに軍事改革を推進した。
  • エジプトは、オスマン帝国の一州であった。1805年、ムハンマド・アリーがエジプトのヴァーリー(総督)に任じられた。ムハンマド・アリーは、重税、強制労働、徴兵により農民に過酷な負担を強いた。
  • 長年にわたりつちかわれたオスマン帝国の官僚の世界観や政治感覚は、なかなかたやすく変わるものでもなかった。
  • 1798年から1814年までの期間、イスラーム諸王朝とヨーロッパ列強との友好と敵対の構図が猫の目のようにくるくる変わった。
  • 「東方問題」は、むしろ「西方問題」というほうがふさわしい。
  • 「西方問題」とは、ヨーロッパの世界観と利益のなかで国際紛争の発生・調整・解決をはかるメカニズムである。
  • マフムト2世の改革はかなりの成果をあげた。
  • 18世紀は、近代の開幕を準備した重要な時期である。なぜなら、預言者ムハンマド時代精神に回帰しながら、退化したイスラーム社会の内部改革をめざす潮流が、18世紀半ばのイスラーム世界各地にほぼ同時に生まれたからだ。担い手となったのは、イスラーム社会の信仰と生活を純化しようとしたスーフィーウラマーである。
  • ワッハーブ派運動は、オスマン帝国の無能力ぶりを白日のもとにさらしただけでなく、エジプトのムハンマド・アリー王朝の力量を満天下に知らせることにもなった。

4 アラブ対トルコ

  • オスマン帝国にとって、内政と外交がいちばん複雑にからみ、頭を悩ましたのはエジプト問題であった。
  • ムハンマド・アリーの悩みは、かれが依然として公式にはスルタンの臣下のままであり、エジプトが主権独立国家ではなかった点である。
  • ムハンマド・アリーが進めた近代化は、さながら日本の明治政府がおよそ半世紀後に進めた文明開化や富国強兵、さらに殖産興業政策を想わせる。
  • 東方問題の結果、エジプトはヨーロッパ諸国の集団安全保障体制に組みこまれた。これは、イスラーム国際システムから離脱して、ヨーロッパ国際システムに従属的に位置づけられることを意味した。しかも、独立主権国家の間の水平的な関係ではなく、宗主国と植民地とのあいだの垂直的関係である。

5 イスラームの文明開化

  • タンズィマートとは、最編成や組織化を意味する言葉であり、1839年から76年までつづく改革運動を指す。タンズィマートは、軍事、行政、財政、文化、教育の欧化政策でもあった。
  • イギリスがオスマン帝国の領土を保全しようとした理由の第一は、イギリス本国や東インド会社の貿易が発展するためには、地域の安全と商人の保護を図る必要があったためである。第二に、インド保全のためにロシアにスエズを渡さないためである。
  • クリミア戦争は、列強の政治干渉と経済進出をますます増大させただけでなく、トルコの分割と半植民地化をもたらした。

イスラームと民族問題