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興亡の世界史16 大英帝国という経験

 

大英帝国という経験 (興亡の世界史)

大英帝国という経験 (興亡の世界史)

 

きっかけ

何冊目かになる「興亡の世界史」。「経験」という歴史書の書名では見たことのない言葉選びのセンスに惹かれました。

感想

  • 高校世界史が教えない史実、いわゆる歴史の裏側ばかりでとても興味深いです。
  • 大英帝国を2つの時代に分ける、という発想自体が私には新鮮です。
  • ヨーロッパ人の黒人に対する扱いのひどさは、知っていても改めて不快感がこみ上げてきます。
  • コーヒー、お茶、旅行といった文化史は「茶の世界史」等を通じて多少知っていたので、あまり新鮮味がありませんでした。

メモ

  • 大英帝国の歴史は、アメリカ独立の前後で2つに分けられる。
  • 第一次帝国の重心は西、第二次帝国の重心はにある。
  • 第一次帝国は「プロテスタントの帝国」、第二次帝国は「自由貿易の帝国」「慈悲深き博愛主義の帝国」であった。
  • この不可解な変身の謎を解く鍵は、植民地アメリカ喪失のなかにある。
  • 第一次帝国とはイギリスがヨーロッパの覇権を握るプロセスそのものであった。
  • イギリスは七年戦争()に勝利したが、戦費調達のために発行された膨大な国債のために、ヨーロッパで類を見ない重税国家となった。
  • イギリス議会は莫大な借金を解消するため、植民地アメリカにもその一部を担わせようとした。1764年の砂糖法である。
  • アメリカ植民地人は、「有益なる怠慢」という帝国政策のもと、「実に穏やかに支配され、きわめてわずかしか課税されず、ほとんど抑圧を受けない人びと」だった。
  • アメリカ植民地の人びとは、イギリスの価値観や考え方を受け入れ、それを支持していた。そして、多くのイギリス人もまた、植民地アメリカの人びとを「イギリス人」とみなし、それゆえに政治上の権利意識を植民地人にも認めていた。
  • しかし、アメリカ植民地人は、独自の植民地議会を発展させ、その決定に従って物事を解決してきた。その意味で、アメリカ人はけっして「イギリス人」ではなかった。
  • プロテスタントアメリカがカトリックのフランスと連合関係を結んだことは、イギリスに信じられないショックを与えた。イギリスと親密な関係を保ってきたプロテスタント国のオランダも、アメリカを支持して参戦した。アメリカ独立は、カトリックvs.プロテスタントというヨーロッパの対立構図を大きく変える「革命」だったのである。
  • アメリカ喪失は、イギリスから帝国という空間をイギリス社会と同じように捉えようとする理解力と想像力を奪い去った。
  • アメリカ喪失の経験は、帝国統治についていくつかの教訓を残した。①「イギリス人」としての共感を植民地に求めないこと。②イギリス議会を核とする枠組みに植民地を組み込まないこと。③アメリカ喪失は、植民地に勝手な統治を許してきた「有益なる怠慢」の顛末であること。
  • イギリス人にとって、アメリカ人は、「物理的には離れているが文化的には近く、うれしいほど似ているがいらだつほど異質である」
  • イギリスの人びとは、アメリカ喪失により、自分たちはいったい何に対してなぜ戦っているのかという根本を見失ってしまった。
  • 18世紀、イギリス東インド会社は、腐敗の象徴と目されていた。ネイボッブ(nabob、インド成金)は、東インド会社を舞台におこなわれた不正な蓄財のシンボルであった。
  • 17世紀末、スコットランド会社は、巨額の資金を集めてダリエ(現在のパナマ)に植民地建設を計画したが、壊滅的な失敗に終わった。待ち受けていたのは、国家としての破産状態だった。
  • 1707年、スコットランドイングランドとの合同(事実上の合併)に合意した。
  • フランス革命後の対仏戦争でイギリスでは慢性的な兵力不足が続いていたため、政府は国民の状態を正確に把握する必要があった。
  • 初の国勢調査は、アイルランド人を対仏戦争の前線に送り込むことを視野に収めた、連合王国対仏総動員態勢の現れである。
  • 19世紀前半、移民には失業者や貧民を国内から排除し、革命の芽を摘み取ってイギリス社会を安定させる「安全弁」の役割が期待されていた。
  • 植民地初期のオーストラリアにやってきた人びとは、16歳から35歳までの若い健康な男たちが大半だった。
  • 「節税としての移民」は、ヴィクトリア朝時代を通じて移民活動を正当化する大きな理由だった。
  • アメリカ移民と比べて、オーストラリア移民には熟練労働者と農民の比率が高かった。
  • 19世紀を通じて、イギリスからの圧倒的多数の移民は、アメリカ合衆国に向かっていた。
  • イングランドからの移民には、2つの大きな特徴があった。ひとつは単身の移民が多かったこと、もう一つは帰国率がきわめて高かったことである。イングランドからの移民は、よりよい賃金を求める「出稼ぎ感覚」でアメリカに渡っていたことになる。
  • 1890年、カナダ西部は「最後にして最高の西部」と宣伝された。その陰で、カナダ西部のマイナス面はみごとに隠蔽された。
  • 王立アフリカ会社は、1672年から98年までの二十数年間、アフリカとの三角貿易を独占していた特許会社である。この二十数年間は、砂糖の消費量がイギリス社会で爆発的に増大した時期であり、英領西インド諸島における砂糖きび栽培が順調に発展した時代でもあった。
  • 砂糖きびはまことに手のかかる植物である。集団労働を必要とする砂糖きび栽培で、最初にその労働力となったのは、現地のインディオたちであった。しかし、その後まもなく、ヨーロッパ人が持ち込んだ病気や酷使のあげくインディオが絶滅に近い状態に陥ったため、工場的な労働力の供給源として注目されたのが、西アフリカからの黒人奴隷であった。
  • 王立アフリカ会社が独占期間に売買した奴隷の数は10万人をはるかに上回る。
  • 大西洋上での「黒い積み荷」の高い損失率、すなわちアフリカ人奴隷の死亡率の高さは、船主にとっても貿易商人にとっても悩みの種であった。海上保険契約上、奴隷はあくまで「積み荷」であり、人間とはみなされなかった。
  • 1730年頃になると、ブリストルはイギリス最大の奴隷貿易拠点として知られるようになる。ブリストルの町全体が奴隷貿易と関わり、何らかの利益を得ていたといっても過言ではない。
  • その後、18世紀半ばになると、低コストの輸送費をアピールするリヴァプール商人に奴隷貿易の主役の座をとって代わられた。
  • 1807年、大英帝国内部での奴隷貿易が廃止された。1833年には奴隷制度自体を禁じる法案を通し、大英帝国内部における奴隷制度は全面的に廃止された。
  • 18世紀半ば以降、砂糖の生産が世界規模で拡大したことにより、砂糖の価格自体が値崩れしはじめた。その後、大量生産による砂糖価格の低下と、重商主義政策を続けるイギリス政府のはざまで、18世紀末から19世紀初頭にかけて、砂糖生産に特化してきた英領西インド経済は急速に衰退した。
  • 18世紀半ば以降、「奴隷制度は自然法に反する」と謳った人権思想、自由主義経済思想を背景に、砂糖の不買運動が起こった。
  • 奴隷船ゾング号事件とは、船長の権限で一部の積荷(病気の奴隷132人)を海に捨ててリヴァプールに帰還した後、規定に基づき保険会社に対して合計4000ポンド近くを請求したが、保険会社はこれを拒否し、訴訟となった事件である。
  • 最後に投棄された26人の黒人は病気の程度が軽かったこともあって激しく抵抗したため、手錠をはめられて海中に投げられたなど、事件の詳細が暴露され、それまで奴隷に何の疑問も関心も感じていなかった人々にも強いショックを与えた。
  • 議会も動き、ひとつには明白な危険がある場合を除いて奴隷(という商品)は保険金受取対象とはならないこと、もうひとつはどのような状況下であろうと生きた奴隷を船外に投棄してはならないことが法律に明記された。
  • 1999年、リヴァプール市参事会は、大西洋奴隷貿易のなかでこの町が果たした役割を正式謝罪する決議を満場一致で採択した。
  • イギリスでは「女王の時代に国が栄える」といわれる。
  • ヴィクトリア女王の時代は、徹底した男性中心社会でもあった。
  • ミドルクラスの人びとは、女王に、君主としての「パブリック」な顔とともに、夫に貞淑な妻、子どもたちの慈悲深き母という「プライベート」な顔をも期待した。
  • 女王は、政治に男性並みに関与するのではなく、当時のモラルが女性に求めた家庭的な役割を引き受けることで、国民の視線を君主制そのものからうまく逸らした。
  • 「帝国の母」という女王イメージは、労働者たちにアピールするかたちで創られた。
  • 19世紀末から20世紀初頭にかけて、大英帝国全盛期に女余りが問題化した。
  • 要因は、第一に15歳までの男性の死亡率が女性を圧倒的に上回っていたこと。第二に、帝国拡大にともない、軍人や行政官、商人、移民として男性が海外に出ていったことである。
  • ミドルクラスの娘たちには労働が否定され、働くことは階級的な転落を意味した。
  • 多くの女性が移民先としてめざしたのは自治領カナダであった。開発の進むカナダ西部で家事使用人が必要とされたことが、イギリスからの女性移民を促進した。
  • 女性移民は、男女比のアンバランス解消の有効策だった。
  • ヴィクトリア朝のイギリスは、カナダを大英帝国内部に留めつづける役割を、女性の「文明化の力」に期待した。
  • ミドルクラスの女性が、身分を損なわずに有償労働が許された唯一ともいえる職業は、住み込みの女家庭教師(カヴァネス)であった。
  • イギリスから移民した女性たちが植民地カナダに定着していくプロセスとは、彼女たちが入植者から国民へと変貌するプロセスであった。
  • 慈善活動こそ、女性たちが帝国の存在を意識する大きなきっかけだった。
  • 現地人や現地社会と距離を起きたかったのは、奥方たちではなく、植民地支配そのものだった。植民地の奥方たちは、いわば白人社会と現地人社会との「境界線」であり、帝国支配のためにさまざまに利用された。
  • レディ・トラベラーとは、ヴィクトリア朝時代に世界各地を旅して回った女性たちを指す。彼らはミドルクラス以上の出身で、きわめて高い知性の持ち主であり、彼女たちが帰国後に出版した本は一般読者に実によく読まれた。
  • メアリ・キンクズリは、アフリカにはヨーロッパとは異なる独自の文化や宗教、法が存在することを発見した。それは、従来「文明化」の象徴として当然視されてきたキリスト教の布教が、異文化を有するアフリカ人を治めるには何の解決にもならない、むしろヨーロッパ文明を押し付けてそのコピーを作ることはアフリカにとって不幸でしかない、という認識に繋がった。
  • ナイティンゲールの活躍により、看護婦には医学上の技術や知識以上に、レディとしての資質(自己犠牲的な献身や従順さ、思いやりなど)が求められた。
  • 喜望峰は、強い突風が吹き荒れることから、当初「嵐の岬(Cape of Storms)」と名づけられていた。それを「喜望峰(Cape of Good Hope)」と改めたのは、かのヴァスコ・ダ・ガマである。
  • 南アフリカが急に脚光を浴びたのは、ダイヤモンドが発見されたことがきっかけだった。
  • フーリガン(hooligan)は、英語ではなく、アイルランドゲール語起源だとされるが、その原義は今なお明らかではない。
  • 19世紀後半、都市型消費社会のなかで子どもや若者でも簡単に現金が手に入る仕事が大量に出現した。
  • 少年労働」と呼ばれる仕事は、熟練を要さない、それゆえに低賃金の単純労働を指す。誰もができ、嫌ならば簡単にやめられるが、昇給はおろか、それで生計が立てられる種類の仕事ではない。
  • 少年労働に飛び込む子どもたちへの批判がある一方で、快適さを求める都市型消費社会は、そうした「大人になれない若者たち」を必要としていた。
  • 19世紀末、出生率低下すなわちイギリス人の量的減少の問題は、帝国問題と化した。ここに、若者の身体水準の低下、つまりイギリス人の質的低下が重なった。この問題は、「国民の退化」問題と呼ばれて、イギリスで激しい論議の的となった。やがて問題は労働者階級の若者の心身に絞り込まれた。
  • 1908年、『ボーイスカウト読本』は全国的な反響を読んだ。ここに、ボーイスカウト運動がはじまる。
  • ローマ帝国衰亡とのアナロジー大英帝国の将来を懸念する声は、19世紀末から20世紀初頭にかけてイギリス各地で認められた。
  • アフガニスタンは、イギリスが思い出したくもない「帝国の負の記憶」を背負った場でもあった。
  • 日露戦争は、実際の戦闘とは別のところで、日本イメージが構築される機会となっていた。
  • 1904年、首相桂太郎と外相小村寿太郎の要請で、末松謙澄が渡英した。彼は、日英関係史にロシアの動きを絡めながら、中国との差異を強調して日本の近代化の現状を語り、日本人が好戦的な国民でないことを示しつつ、アングロ・サクソンとの連帯を強く訴えた。
  • イギリス人が知りたかったのはただひとつ、「なぜ日本の兵士(軍隊)はあれほど強いのか」であった。
  • 末松は「イギリス人が知りたい、見たい日本」に照準を合わせてうまく日本をアピールし、イギリス人の親日感情を引き出すことに成功した。
  • 1921年、イギリス政府は、大戦におけるアメリカの協力とカナダの主張に配慮して、日英同盟の更新を却下した。
  • 日英同盟の破棄は、大英帝国に新しい時代ーコモンウェルス体制ーが到来したことをはっきりと物語っていた。