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ヨーロッパ冷戦史

 

ヨーロッパ冷戦史 (ちくま新書)

ヨーロッパ冷戦史 (ちくま新書)

  • 作者:山本 健
  • 発売日: 2021/02/08
  • メディア: 新書
 

きっかけ

  • 冷戦というと、米ソを中心に論じるもの。ヨーロッパ×冷戦という組み合わせにまず興味を惹かれました。
  • 加えて、新書ながら1200円という分量にもワクワクしました。

著者は?

感想

  • いわゆる「新書のレベル」を遥かに上回る、専門書級の厚みある内容です。ハードカバーなら3000円はするでしょう。筑摩書房さん、新書で出しちゃって良かったんですか!?ありがとうございます。
  • 私の頭には「第二次世界大戦後=冷戦」という固定観念あるいは既成概念ができてしまっていて、なぜ米ソは対立に至ったのか?大英帝国は何をしていたのか?などとは疑問に思いもしませんでした。そのことに気付かされただけでも、「あぁ、この本を読んでよかった」と感激しました。
  • 私は、自分が重要と思う箇所を「メモ」として抜粋していますが、本書はそれがあり過ぎて、「メモ」が本文のほとんど書き写しになりつつあります。
  • 読みやすく、頭に入る文章です。その理由は、接続詞を適切に挿入していることと、事実の後に理由を「〜だからである」と逐次述べているからです。接続詞は、文章の前後関係を明らかにしてくれます。これらがない文章は、「○○は△△した。●●は▲▲した。」と事実の羅列になり果てます。まさか、編集者の手が入った本でそんなことがと思いたいところですが、残念なことに、私はそのような書物に時々出くわします。
  • 冷戦の背景にあった、当事国や当事者の思惑、懸念、意図。それらが散りばめられることで、歴史から人間の息吹のようなものを感じられました。
  • アメリカ=善、ソ連=悪という固定観念が自分の頭に刻み込まれてしまっていることを自覚しました。これのせいで、「ソ連のやることなすこと、全部おかしい」という先入観が始終付きまといます。
  • 本書のおかげで、アメリカや西欧のしたことは、ソ連の立場からするとこう感じられるのか、と妙に納得できました。ソ連にはソ連なりの論理があることを、具体的に認識できました。
  •  西側と東側が、決して一枚岩ではなかった。数十年間、東と西で一致団結して睨み合うような、 単純な構図で冷戦を理解したつもりになっていた私にとって、 これは驚きの事実でした。
    米英仏ソ+東独・西独が、コロコロと態度を変えては、 相手をとっかえひっかえして、くっついたり離れたり。 まるで10代の恋愛みたいだなぁ。
  • あまりに内容が濃すぎて私の手には負えないので、読破を諦めました。

メモ

  • 1945年の時点で、アメリカとイギリスがともに一つの陣営をつくろうとしていたわけではない。ソ連もまた、米英との協調を継続することは必要だと考え、はじめから共産主義陣営を構想していたわけではなかった。
  • パーセンテージ協定とは、1944年に英ソ間で取り決めた勢力比のこと。ギリシャはイギリスが90%、ルーマニアソ連が90%、ユーゴスラビアはともに50%など。
  • イギリスにとって、ポーランド問題ソ連との最初の大きな対立点となった。
  • 1943年のテヘラン会談で、ポーランドの東側国境が大きく西方へ移動することとなった。さらに、ポーランドの領土をドイツ側(西方)に300km以上移動させることで基本合意がなされた。
  • ポーランドのロンドン亡命政権はこのような取り決めに強く反発し、そのことがソ連との関係悪化の主な要因の一つとなった。
  • アメリは、英ソとは異なり、勢力圏を分割するという発想を嫌っていた。
  • ポーランド問題はヤルタでは決着がつかなかった。ポツダム会談では、米英ソの間で、スターリン(Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин)が主張した西ナイセ線が暫定的な国境線と定められ、平和条約締結時に国境線を正式に確定することで合意した。
  • しかし、ドイツが東西に分断され、平和条約自体が締結できなくなったため、関係国すべてが合意する形で国境線を確定できなくなった。
  • ポーランドに併合された旧ドイツ領から西ドイツへ逃げ延びた人々は、のちにポーランドとの新たな国境線を認めないとする一大勢力となる。
  • ドイツ降伏後、米英仏ソによる連合国管理理事会が発足したが、理事会の決定は全会一致制であったため、各国が事実上の拒否権を行使し機能不全に陥った。
  • 各占領地区では独自の占領政策が進められることになり、統一ドイツの建前は形骸化していった。
  • ド・ゴールはドイツの弱体化を求めた。しかし、ドイツ政策への支持をスターリンから得ることはできなかった。アメリカからも冷遇され、ド・ゴールヤルタ会談にもポツダム会談にも招待されず、彼の反米意識は強まっていった。
  • 1945年7月の総選挙でチャーチル(Sir Winston Leonard Spencer Churchill)は敗北し、労働党アトリー(Clement Richard Attlee)が首相に、外相にはべヴィン(Ernest Bevin)が就任した。べヴィン外相が目指したのは、世界大国としてのイギリスの地位を維持することであった。だが、ヨーロッパでの戦争が終わった時点で、イギリス経済は事実上、破産していた。
  • しかも、米英関係は良好とはいいがたかった。米国務省は、労働党政権を、国内においては社会主義的で、国外においては植民地を維持し続ける帝国主義的政府であるとみなし、イギリスに寛大な援助を続ける意志を持っていなかったからである。
  • 1945年の時点で、米ソを頂点とする2つの陣営が対立し合う構図は、まだ現れてはいなかった。
  • ソ連を脅威とする認識は、アメリカよりも早く、イギリスにおいて強まっていた。
  • 米英仏ソが合意できるドイツ問題の解決策を見いだせなかったことが、ヨーロッパを東西に分断する背景を作った。
  • フランスは強いドイツが復活することを恐れていたため、非軍事化、非武装化し、緩やかな連合国家になることを望んだ。ドイツの経済復興を後回しにするため、ザール、ラインラント、ルールの3地域はドイツから切り離されるべきと主張した。
  • ソ連第二次世界大戦でドイツ軍により甚大な被害を被ったことから、賠償の取り立てを最も重視した。スターリンソ連の影響力を維持するために、ドイツが統一体であることを重視し、分断ドイツを望んではいなかった。
  • イギリスは、仏ソのドイツ政策と真っ向から対立した。イギリスは早期に占領を終わらせるために、ドイツの中央政府樹立が望ましかった。また、ドイツが自力で賠償を払い、自前で必要なものを購入できるようにするため、高い工業水準を主張した。政府内では、1946年春までに、ドイツを分断してソ連の影響力を排除し、西側三国の占領地区を統合し、独自のドイツ政策を進めるのが望ましいとの認識が広がった。
  • アメリカは、ドイツを25年間非武装化し、国際管理下に置く構想を提案した。しかし、スターリンはこれを拒否した。ソ連は、アメリカの提案の目的がドイツへのソ連の影響力を弱め、ソ連が得られる賠償を減らし、ドイツの経済力と軍事力を温存し、それをソ連に対して用いることと見なしたからである。
  • ドイツから賠償をどのように取り立て、ドイツ経済をどの程度どのような早さで復活させ、それをどの程度まで自国ならびにヨーロッパの復興と関連させるのか。ドイツ問題は、イデオロギーや安全保障問題と連動し、相互不信を増大させた。
  • バイゾーンとは、1947年に発足した米英統合占領地区をいう。
  • フランスは参加せず、ソ連は統一ドイツを諦めていなかったが、このバイゾーンがドイツの東西分断の原型となっていく。
  • トルーマン・ドクトリンとは、トルーマン大統領が示した、「自由主義体制」と「全体主義体制」という2つの生活様式で世界を二分する見方である。
  • しかし、スターリンはこれをさほど重視しておらず、むしろ彼は西ヨーロッパ各国から共産党が追放されたことを深刻に受け止めていた。
  • ソ連の戦後構想である国民戦線」戦略は、共産党が他の政党と連立を組む形で政権に関与し影響力を維持することを目的としていた。しかし、その戦略が西ヨーロッパにおいて崩れた結果、スターリンは西側諸国との間で妥協を模索する方針を放棄していった。
  • 1947年は、ソ連側から見ると、国民戦線」戦略の崩壊という点で重要な年である。
  • マーシャル・プランとは、米国務長官ジョージ・マーシャルが1947年にハーバード大学の卒業式の演説で打ち上げた、ヨーロッパ復興支援計画である。
  • その核心には、ドイツ経済の復興があった。ヨーロッパ力強く復興するためには、ドイツの経済復興が欠かせないと考えたためである。
  • ソ連は、条件次第では復興計画に参加するつもりだった。しかし、全ヨーロッパの共同復興計画は、ソ連経済的自立を脅かすものであった。そして、スパイを通じて米英の方針がソ連の条件と根本的に相違しており、米英がソ連排除を狙っていることを知った。
  • ソ連は、米英がヨーロッパ復興計画を通じて西ドイツを含むソ連の西側ブロックを形成しようとしていると確信した。それのみならず、マーシャル・プランは、東ヨーロッパ経済に資本主義を浸透させ、ソ連の影響力を弱め、東欧諸国を西側に引きつけようとするものであると見なした。東欧諸国がアメリカの覇権のもとに置かれることを恐れたソ連は、東欧諸国にマーシャル・プランの協議に出席しないよう通告した。
  • その結果、欧州経済協力委員会(CEEC)は西欧諸国を中心に16カ国が参加することとなり、東西に分断されたヨーロッパが制度化されていく端緒となった。
  • これに対し、東側陣営の制度化も進められた。これまでの国民戦線戦略を明確に放棄し、共産主義者が団結して資本主義と戦い、反米闘争を行うことを目的にコミンフォルムКоминформ: 共産党・労働者党情報局)を創設した。
  • 第一次ベルリン危機とは、1948年にソ連が米英仏の占領地域であるベルリン西部を封鎖することで圧力をかけ、ドイツの分断を阻止しようとした出来事である。
  • ベルリン封鎖は、ソ連の対ドイツ政策が失敗した結果でもあった。①共産党の影響力を全ドイツに広げることができなかった。②ソ連の影響力を保持するために統一ドイツを求めた一方で、ドイツの工業水準引き上げに反対し、ドイツからの賠償取り立てを最優先課題とするなど、一貫性が欠如していた。③ソ連占領地区の経済復興を軽視した。
  • スターリンがベルリン全面封鎖に踏み切る直接のきっかけは、西側占領地区における通貨改革であった。
  • 米英仏三国のドイツ占領地区で、無価値になっていたライヒスマルク(Reichsmark)が廃止され、新たにドイツマルクDeutsche Mark)が導入された。一夜にして店に商品が溢れ、闇市は姿を消した。信頼できる貨幣が登場したことで、ドイツの人々は退蔵していたものを売りに出し、経済が一気に活気づくことになった。
  • スターリンの目的は、西ドイツ国家の樹立を阻止することだった。さらに、ベルリンから西側の駐留軍を追い出せるかもしれないと期待していた。だがその当てはまったく外れることになる。
  • 米英は大空輸作戦を実行し、昼夜を問わず11ヶ月に渡り、およそ27万7500回もの空輸を実施した。
  • 戦争を望まなかったスターリンは、四カ国の外相会議を再開するという形で最低限の面子を保ちながら、1949年5月にベルリン封鎖解除した。
  • ベルリン封鎖ソ連のイメージを大きく損なわせ、他方で大空輸作戦はアメリカの異イメージを大幅にアップさせた。ドイツの分断に反対していた西側占領地区のドイツ人たちも、西ドイツ国家の創設を受け入れるようになった。スターリンの政策は、完全に裏目に出たのである。
  • 西ドイツでは、1949年5月に「基本法」が採択された。実質的な憲法であるが、西ドイツは将来の統一ドイツのための暫定的国家であるとの位置づけから、暫定的な憲法であるとの意味を込めて基本法」と呼ばれることになった。
  • 1949年9月、ドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland: 西ドイツ)が樹立された。初代首相に選出されたのは、元ケルン市長でキリスト教民主同盟(CDU: Christlich-Demokratische Union Deutschlands)のコンラート・アデナウアー(Konrad Hermann Joseph Adenauer)であった。
  • 西ドイツという国家が樹立されたことは、しかし、西ドイツの独立を意味したわけではなかった。米英仏による占領状態は継続し、西ドイツ軍を創設することも、外務省を設立することもできなかった。
  • いっぽうスターリンは、ソ連占領地区を単独国家にするのではなく、統一ドイツを目指すように指示していた。ただしスターリンは、もしドイツが分断されるのであれば、その責任が西側諸国に帰せられる形にしなければならないとは考えていた。
  • 1949年10月、ドイツ民主共和国(Deutsche Demokratische Republik; DDR: 東ドイツ)の樹立が宣言された。
  • 成立当初の東西ドイツは、どちらもが一つのドイツをあるべき姿として掲げていた。しかも同時に、自分たちこそが唯一正しいドイツであるとの立場をとったのである。
  • ドイツが分断国家になった結果、第二次世界大戦を正式に終わらせるための平和条約はドイツと連合国との間で締結できなくなってしまった。「正統なドイツ」を主張する国が二つ存在することになったからである。
  • 西ドイツは、国連に加盟できなかった。ソ連安全保障理事会において拒否権を持っていたからである。
  • 米英両政府にとって、1948年のチェコスロヴァキア政変は、西欧諸国にまで波及しかねない問題として強く懸念された。ソ連の脅威は、軍事的なものというよりも、各国の内側から民主主義を破壊するものと米英には認識されていた。
  • 1949年、西側12カ国が北大西洋条約に調印した。相互防衛を約した、西側の軍事同盟の誕生である。
  • アメリカは、1776年の独立革命以来、はじめてヨーロッパ諸国と平時に同盟関係を結ぶこととなった。
  • スターリンはヨーロッパの東側において、それに対応する多国間の軍事同盟を作る必要を感じていなかった。ソ連と東欧各国との二国間相互援助条約のネットワークを構築する方を彼は好んだ。
  • コメコン(COMECON- Council for Mutual Economic Assistance: 経済相互援助会議)は、マーシャル・プランに参加しない国々の間で経済的な相互援助を促進する組織として設立された。だがそれは、その名が示すような「相互援助」によるコメコン加盟国の経済発展に貢献するようなものとはならなかった。スターリンは、引き続きソ連と東欧諸国との二国間関係を重視し、東欧諸国間の協力が進展しないことを望んでいたからである。
  • ブレトンウッズ体制の二本柱であるIMFと世銀は、ソ連が加盟しないまま、1945年に設立されることとなった。
  • スターリンGATT膨張主義アメリカが世界経済を支配するための道具であると見なし、批判し続けた。
  • ドイツを東西に分断し、西ドイツ国家を樹立する試みが米英によって進められると、フランスはそれに対抗すべく、「ヨーロッパ統合の中のドイツ」という方向性を模索するようになった。
  • アメリカは、ヨーロッパ統合の考えを熱心に支持した。アメリカの冷戦戦略上、以下の理由で非常に都合が良かったからである。①西ヨーロッパが団結してソ連に対抗できるようになる。②西ドイツを西側陣営に分かちがたく結びつける。③危険なドイツ・ナショナリズムをヨーロッパの枠組みの中に封じ込めることができる。
  • 画期的な提案を提供したのが、フランス計画庁の長官だったジャン・モネ(Jean Omer Marie Gabriel Monnet)である。モネは、仏独和解をアピールしつつ、石炭・鉄鋼の共同市場を創設し、それを超国家的組織である最高機関が管理するという構想を編み出した。この構想は1950年に仏外相シューマン(Robert Schuman)によって発表され、シューマン・プランと呼ばれるようになる。
  • シューマン・プランは、1951年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)として実現した。
  • 東欧諸国の史料によると、軍部は、もし西側が攻めてきたら自国内でどう防衛するかという計画を立てていた。西側陣営を攻める軍事計画はなかった。
  • 他方で西側は、もしソ連が西ヨーロッパに攻めてきた場合、いったん撤退してしまうと、もはや核を所有したソ連からヨーロッパ大陸奪還できないと考えるようになった。
  • 当時西側では、ソ連軍の戦力は175個師団(師団とは、主たる作戦単位であるとともに、地域的または期間的に独立して、一正面の作戦を遂行する能力を保有する最小の戦略単位)と見積もられていた。しかし今日では、ソ連の兵力は過大に評価されていたことが明らかになっている。
  • だが当時は大きな兵力差があると認識され、その差を埋めるため、西側防衛のために西ドイツの再軍備が必要であるとの考えが広まっていった。
  • 朝鮮戦争の勃発を受け、アチソン米国務長官は、アメリカは西ヨーロッパ防衛のために西ドイツ4-6個師団を送る用意があるが、それと引き換えに、12個師団規模の西ドイツ軍を創設することを要求する「パッケージ提案」行った。この提案は、外相会議が開催されたホテルにちなんで「ウォルドルフの爆弾」と呼ばれた。
  • これに対しフランスは、まずシューマン・プラン=欧州石炭鉄鋼共同体を実現し、その後にヨーロッパ軍を創設するという順番を重要視した。この提案は、プレヴァン仏首相(René Pleven)によって発表されたことから、プレヴァン・プランと呼ばれる。
  • だが、プレヴァン・プランは歓迎されなかった。フランスによる西ドイツ再軍備先延ばし策と認識されたためである。また、西ドイツのアデナウアー首相は、「プレヴァン・プランは、ヨーロッパにおけるフランスの覇権を再び確立するための試みに他ならない」と捉えていた。
  • アデナウアー首相は、西ドイツ再軍備問題が、西ドイツを占領状態から抜け出させるための手段にもなると考えた。
  • プレヴァン・プランに対する当初の不信感にもかかわらず、西ドイツの再軍備問題は、同プランを軸に話が進んでいくことになった。なぜなら、西ドイツが他国と対等な立場での再軍備を強く求めたからである。
  • 最終的に、ヨーロッパ軍創設構想は、欧州防衛共同体(European Defence Community: EDC)条約としてECSCと同じ6カ国で締結されることになった。同時に、西ドイツの独立を定めたドイツ条約も、米英仏3国と西ドイツとの間で調印された。
  • 朝鮮戦争は、ヨーロッパにおいて西ドイツ再軍備問題を浮上させ、軍事同盟としてのNATOを発展させることになった。1950年12月には、NATOを創設することにも合意した。
  • これに対しスターリンは、東側陣営の軍備増強を進め、通常戦力の軍拡競争をも加速させていく。さらに、西ドイツ再軍備を阻止すべく、外交攻勢も積極的に行った。だが東側のプロパガンダ(propaganda: ラテン語)が、西ドイツ国民の心に響くことはなかった。
  • しかし、EDC条約が調印されると、次第にスターリンも、中立の統一ドイツという考えに対する関心を失っていった
  • その代わりスターリンは、東ドイツ再軍備社会主義を指示するようになった。だが急速な社会主義化は、東ドイツの人々の西ドイツへの逃亡をもたらした。亡命者の数は、1952年の1年間で18万2000人を超え、翌53年の最初の4ヶ月だけでも、その数は12万人に達した。
  • 西ドイツへの人口流入は、西ドイツの経済復興、更にその後の高度経済成長に貢献する。他方で、東ドイツからの人口流出の問題は、ベルリンの壁が構築されるまで、東ドイツ政府を苦しめることとなる。
  • 1953年3月、独裁者スターリン死去した。
  • なぜノルウェーデンマークNATO加盟を選択したのか。ノルウェーデンマーク、そしてスウェーデンも、1947年にマーシャル・プランには参加した。しかし同プランへの参加は、あくまでも経済に限定されたものであり、軍事安全保障問題は別だとの姿勢がとられた。1948年、チェコスロヴァキアでクーデターが起こり、同国は共産化する。さらには4月にはフィンランドソ連と友好・協力・相互援助条約を締結した。ノルウェー北欧にも脅威が迫っているとの認識が広がり、英米両国に支援を要請し始めた。スウェーデンは単独で中立を堅持する道を選ぶことになった。他方でノルウェーは、NATOを選択した。デンマークも、アメリカに見捨てられることを懸念し、消極的ながらノルウェーに従い、1949年に北大西洋条約に調印した。だが両国は、ソ連を刺激しないことも重視し、ソ連側に対してNATOはあくまでも防衛的なものであると強調し続けた。
  • スターリンの死後、新たなソ連の指導者たちがいわゆる「平和攻勢」に出た背景には、アメリカが戦争を仕掛けてくるかもしれないという認識があった。
  • ソ連の姿勢の変化に最も積極的に応えようとしたのが、イギリス首相チャーチルである。チャーチルは、「再統一された中立ドイツ」という形でドイツ問題を解決することが、ソ連と対話し、新たな安全保障体制をヨーロッパに構築し、冷戦を終わらせるために払うべき対価であると考えていた。彼の狙いは3つあったと考えられる。①冷戦の対立が核戦争を引き起こしかねないと真剣に懸念していた。②冷戦後の世界秩序を構築する役割を果たす世界大国としてのイギリスを復活させる。③彼自身が「戦争屋」ではなく「ピースメーカー」と呼ばれ歴史に名を残す。
  • チャーチルは、東西の貿易増加が冷戦の雪解けをもたらすと考えていた。アイゼンハワー大統領も、東西貿易の促進によって東欧諸国を西側に引きつけ、ソ連陣営を弱体化させられると考えていた。
  • 300品目以上あったココムの禁輸リストは、200品目近くまで削減された。だが、このココムの禁輸リストの緩和によって、すぐに東西貿易が急増したわけではない。東欧諸国では基本的に外貨が不足しており、禁輸措置が緩和されるだけでは貿易は増えなかったからである。
  • アイゼンハワー政権は、「ニュールック」と呼ばれる冷戦戦略を策定した。①防衛問題が国家の経済的安定性を損なってはならない。②西側の集団安全保障体制の維持が、アメリカの安全保障の要である。③東側のどのような軍事行動に対しても、圧倒的な核戦力で反撃する。(大量報復戦略)④ソ連の脅威に対し、プロパガンダや隠密作戦などの手段によってすべての側面に対応しなければならない。
  • ニュールック戦略の究極の目的は、コストがかかる駐留米軍を長期的に西ヨーロッパから撤退させることにあった。しかし、それはできなかった。西欧諸国が盾としての通常戦力を十分増強させることなどついぞできなかったからであり、また、アメリカのヨーロッパへの関与こそが、西側陣営の結束を維持する上で不可欠だったからである。
  • 東ドイツ社会主義化は、同国の経済を著しく混乱させていた。ソ連は、東ドイツ社会主義化のペースを落とすよう指示した。だが、東ドイツの指導者ウルブリヒトWalter Ernst Paul Ulbricht)はそれに逆らい、工業労働者のノルマを10%増加する指令を出した。しかし、これがまったくの逆効果であった。
  • 東ベルリン暴動とは、1954年6月に発生した、東ベルリン市民50万人がデモに繰り出し、一部が暴徒化したのに対し、ソ連占領軍が投入され、約50人が死亡、数百人が逮捕されたとされる事件である。この出来事は、東欧諸国における社会主義体制に対する最初の大規模な民衆の異議申し立てであったという意味で重要である。
  • 1954年1月、ベルリンで四大国外相会議が開かれた。ソ連モロトフ外相(Вячеслав Михайлович Молотов)は、欧州安全保障条約案を提示した。この条約には、東西ドイツを含むすべてのヨーロッパ諸国が参加することとなっていた。また、この条約はヨーロッパのものであるため、アメリカと中国は直接加盟国になることはできず、オブザーバー参加に留まるとされた。この点が示されたとき、西側から笑いが生じたという。
  • ベルリン会議において、ソ連側はEDC創設を出来る限り遅らせようとし、他方で西側は会議後すぐにEDCを実現させようとして、この会議を利用していた。3週間にわたるこの会議は、何ら成果なく閉幕することとなった。
  • 会議後、ソ連はなんとソ連NATOに加盟するという奇策を提案した。西側は、ソ連民主主義国でないとの理由ソ連の申し出を拒否した。
  • 1954年8月、フランス国民議会がEDC条約の批准を最終的に拒否した。これは、軍事領域におけるヨーロッパ統合の進展が妨げられ、またEDCを通じた西ドイツの再軍備が不可能になったという意味にとどまらなかった。EDCの流産は、西ドイツが独立し主権を回復できなくなることをも意味した。
  • EDCが流産してから1ヶ月後、西ドイツとイタリアが新たに加わったブリュッセル条約は、西欧連合(Western European Union: WEU)とその名を変えた。WEUはNATOの一部となることも決められ、西ドイツはNATOに加盟することとなった。フランスは、国民議会がパリ条約を批准したことにより、結局、西ドイツ再軍備と西ドイツのNATO加盟を受け入れることとなった。
  • 1955年5月5日、パリ協定が発効し、それによって西ドイツは主権を回復し、独立国家となった
  • その直後、ソ連・東欧諸国は、ワルシャワで開催した安全保障会議において、軍事同盟条約であるワルシャワ条約に署名した。こうして、NATO創設から6年後に、ヨーロッパにおいて二つの軍事同盟が対峙する図式が生まれた。
  • ワルシャワ条約機構の創設は、軍事的なものというよりも政治的なものであった。ソ連の政策目標は、依然として欧州集団安全保障体制を実現することであった。ワルシャワ条約機構の創設は、そのための外交的手段だったのである。
  • 1955年、冷戦開始以来初の東西首脳会議がジュネーブで開かれたが、何も合意することがないまま閉幕した。四大国がまずは直接対話を行ったことを良しとする「ジュネーブ精神」という言葉だけがもてはやされた。
  • ソ連は、「一つのドイツ」の中で社会主義体制が生き残れないことは明らかだったことから、東ドイツ社会主義体制を守るため、二つのドイツが存在するという現状を維持することで、東ドイツの安定化を図った。
  • ソ連はアデナウアー首相を招き、突如として「紳士協定」を提示した。ソ連の捕虜となっているドイツ国保有者1万人をすべて解放する代わりに西ドイツと外交関係を樹立する、というものである。この提案はアデナウアーにとって想定外だったが、彼はそれを拒否できなかった。もしこの申し出を拒否すれば、ソ連との外交関係を樹立しないために、ドイツ国民を見捨てることになり、西ドイツ国内で激しく批判されると考えられたからである。
  • 国務省は、これをソ連外交的勝利であり、ソ連の戦術にアデナウアーが屈した結果であると見なした。
  • ソ連はすぐさま、東ドイツとも新たに条約を締結し、主権国家として承認した。これにより、東ドイツ国際法的にソ連から独立した。
  • これに対し、西側三国は、西ドイツのみが唯一正当な政府であるとの立場を繰り返し、一つのドイツ政策に固執した。
  • アデナウアー政権は、新たに東ドイツと国交を樹立する国とは国交を断絶するとの立場を取ることにした。また、新たに独立した国は、西ドイツと国交を樹立するのか、それとも東ドイツと国交を樹立するのか、選択しなければならないことになった。これを外務事務次官の名にちなみ、ハルシュタイン・ドクトリン(Hallstein-Doktrin)と呼ぶ。これによって大多数の国が西ドイツを選ぶことになり、西ドイツは東ドイツを孤立させることにかなり成功する。
  • ラジオによる心理戦は、ヨーロッパ冷戦の一つの特徴である。
  • 1956年2月、フルシチョフ(Ники́та Серге́евич Хрущёв)は秘密会議での演説において、スターリン個人崇拝を弾劾すると同時に、スターリン時代の多くの政策も誤りであったと批判した。
  • 1956年6月、ポーランド西部のポズナンで動乱が起きたが、政府が即座に軍を派遣し、鎮圧された。だが動揺したポーランド統一労働者党共産党)は、急進的な民主化綱領を採択し、人気のあったヴワディスワフ・ゴムウカ(Władysław Gomułka)を党第一書記に選出した。ゴムウカの選出はソ連との相談なしに行われた、前代未聞の出来事だった。
  • フルシチョフとゴムウカはワルシャワで交渉し、ポーランドソ連に忠誠を誓い、社会主義体制を維持し、ワルシャワ条約機構の一員であり続けるとした。
  • ポーランドと異なり、ハンガリー革命ソ連軍の武力介入を招く結果となった。1956年10月、ブダペストで暴動が発生し、ソ連軍が郊外に迫った。フルシチョフナジ・イムレ(Nagy Imre)首相を受け入れ、いったんはソ連軍を撤退させた。しかし、ソ連は一転して軍事介入を決めた。死者2700人、負傷者1万人超、20万人以上のハンガリー人が難民となり、その多くが隣国オーストリアへ逃れた。ナジ首相はユーゴスラヴィア大使館へ逃れたが、のちに誘拐され、数年後処刑されることになる。後任として党第一書記に就任していたカーダール・ヤーノシュ(Kádár János)は首相に就任し、冷戦の最終盤までハンガリーに君臨し続ける。
  • ポーランドハンガリーにおける1956年の出来事は、様々な教訓と余波をもたらした。東欧諸国にとっての教訓は、急進的に改革を進めれば共産党の一党支配体制がゆらぎ、ソ連の軍事介入を招くというものである。ポーランドの事例は、共産党一党独裁ワルシャワ条約機構への残留を維持すれば、自国において一定程度の独自の改革が許容されることを示した。ソ連の暴力に、フランスとイタリアの共産党は大きな衝撃を受け、ソ連離れが加速した。さらに、西欧諸国の経済が大きく成長し、福祉国家としての制度も充実させていくと、共産主義イデオロギーの魅力は西ヨーロッパにおいてますます失われていった