きっかけ
高校生のとき、NHKスペシャル『映像の世紀』でヒトラーの演説を初めて聴きました。
「なんだこれはw」
最初は、大げさな身振り手振りで叫ぶ様子が面白おかしくて、うぶな高校生であった私は冷笑していました。が、何度も繰り返しビデオを見返すうちに、聴衆を惹き付けるテクニックの何たるかがわかってきました。「なるほど演説の天才とはこういうのを言うのか」と理解を改めました。以来、ヒトラー=激情としたたかさを兼ね備えた野心家というイメージが私の中に強く刻まれました。
しかし先日、ハードディスクに録り溜めてあった映画『ヒトラー最期の12日間』で見たヒトラーは、私のイメージとかけ離れていました。
そこでふと、晩年のヒトラーはどんなだったかが知りたくなり、本棚を眺めていたところ、見つけたのが本書です。
著者は?
感想
- 私が思っていたよりもずっと早くから、ヒトラーから人心が離れていたことを知り、驚きました。戦争末期近くまで、あの威勢の良い調子で国民を叱咤、鼓舞していたと思いこんでいたからです。
- ヒトラーは、国民に対する十分な説得材料がないことから、演説に尻込みしていたようです。しかしながら、ドイツ国民の中には、あの威勢の良い調子を待ち焦がれていた人も少なくなかったのでは?そう考えると、ヒトラーの論理と国民の感情のすれ違いが、両者の間の溝をますます深めたようにも思われます。
- 序章のドイツ史概観が秀逸。要点を確実に押さえながら、無味乾燥な事実の羅列で片付けてはいません。大学入試や大学の期末試験の模範解答にしたいレベルです。
- 加えて、各章の冒頭に置かれたその章の要約もまた簡にして要を得ていて、私の理解を大いに助けてくれました。
- 演説をデータ化して統計学的調査を行っただけでも物凄いことですが、そこからさらに文法的な分析までしてみせるところは、さすが言語学者と驚嘆するばかり。政治学、歴史学とは異なるアプローチが非常に面白いです。
メモ
- ヒトラーは自らの声の衰えを気にしていた。
- チャップリンは、演説というヒトラーの最大の武器を用いてヒトラーを糾弾するという手に出た。
- 大きな演説は、1940年は9回、41年には7回、42年には5回しかなくなった。
- ヒトラーは国民の信頼が次第に消えつつあることを知っていた。
- ヒトラーが国民に向かって話すのをあからさまにためらう様子は、批判を生んた。
- スターリングラード陥落以降、ヒトラーは空想に逃避する傾向が顕著となった。
- ヒトラーは、自らのイメージ保全のため、破壊された街を訪れることがほとんどなかった。
- 1943年7月以降、ほとんどのヒトラーの演説は、臨場感ある演説会場からのラジオ放送ではなく、現前に聴衆のいない原稿読みとなった。
- 1944年7月20日の暗殺未遂事件の後、ヒトラーは国民からの信望を完全に失った。
- 1945年1月30日の録音演説が、ドイツ国民に向けた最後の演説となった。
- プロパガンダという語の元になるラテン語の動詞は「繁殖させる」「種子をまく」という意味である。
- ヒトラーはジェスチャーを交えた実演がうまいという理由だけで演説家として評価を得たのではなく、その演説文のテーマ、構成、表現に関しても早期から成熟していた。
- 漠然とした経済的な公約よりも、国民的名誉、団結、犠牲心、献身などの抽象概念のスローガンのほうが大衆を引きつけた。
- 1933年1月30日、ヒトラーが首相に就任した。しかし、ナチ党からの入閣は内相フリックと無任所大臣ゲーリングだけであり、副首相のパーペンをはじめとする保守派の領袖たちは、政権担当の経験がないナチ党を簡単に懐柔できると考えていた。
- ヒトラーは、ラジオ放送で施政方針を演説した最初の首相となる。
- ジェスチャーについてヒトラーは巧みであると言うほかない。