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幣原喜重郎

 

きっかけ

  • ただ名前を知るのみでした。学生時代、外交史の講義で、M先生の口からその名が挙がったからです。戦間期に対英米協調外交を展開し「幣原外交」と称されたことは、そのときに知りました。また、戦後首相に就任した際、「幣原さんはまだ生きていたのか」と驚かれたエピソードは、当時から非常に印象的でした。
  • しかし、政治家としての具体的な実績は、全く知りませんでした。日本史の知識のない私はてっきり、首相として「幣原外交」を展開したのだろうと誤解していたくらいです。
  • 2021年4月に中公新書から刊行されると知り、ちょうど他に読んでいる本もなかったことから、発売直後に購入しました。

著者は?

感想

  • 文章が巧みで詰まるところがなく、学術的な内容でありながら、まるで小説を読んでいるかのようにぐいぐいと惹き込まれていきます。これほどの筆力のある政治学者と、久しぶりに巡り会えました。
  • 戦前の日本政治史について、それなりにわかっているつもりで、実は全然わかっていなかったと気付かされました。何しろ、満州事変と張作霖爆殺事件の区別もついていないのですから…。あまりに自分が情けないので、市立図書館で満洲国の写真集のような大型本を立ち読みしたほどです。読書の意義、有り難みを感じました。
  • 「幣原すごい!」と持ち上げるだけでなく、外務大臣として中国問題にリーダーシップを発揮できなかった点も指摘するなど、それなりにバランスを取っていると感じました。

メモ

  • 幣原喜重郎は、1872年、現在の大阪府門真市の生まれ。第三高等中学校では、土佐出身の浜口雄幸と出会った。
  • 幣原は帝大法科大学法律学科へ進学した後、日清戦争とその後の三国干渉をきっかけに外交官を志した。しかし、脚気のため外交官領事官試験を受験できず、恩師のすすめで1895年11月に農商務省へ入省した。だが、外交官への思いが募る幣原は、辞表を提出して1896年9月外交官試験に臨み、見事合格した。
  • 最初の任地は朝鮮の仁川だった。これは、幣原が有能な人材として見込まれていた証である。日清戦争後の朝鮮は、北方のロシアによる南下政策に備えるうえで、軍事的だけでなく外交的にみても枢要の地だったからである。
  • 1899年8月、幣原はロンドンに赴任した。英語を学び直した結果、幣原は英語の使い手として省内随一と称されるようになった。
  • 1905年、幣原は電信課長に任ぜられた。幣原が8年もの長きにわたって電信課長を務めた理由は、彼の英語力やブレーンとしての調査能力に加え、省務全体を把握し、的確で安定した文書処理業務を完遂したからである。
  • 正義と公正を重んじる幣原は、対華二十一ヵ条要求の内容に違和感を覚え、義兄である加藤高明外相へ私信を宛てて反対意見を述べた。
  • 1915年、幣原は外務次官に就任した。任期の最終盤、第一次世界大戦が世界の勢力図を大きく塗り替え、米国の東アジア干渉政策という新たな課題に対処しながら、日本外交の舵取りを迫られることになった。
  • 幣原は、当時中枢とされた政務局勤務を一度も経験していない。政務局への勤務経験がなかったため、いわゆる亜細亜派の政策理念に、中国問題の専門家としての立場から親しむ機会を失った。のちに幣原が外相になった際、キャリア形成のこうした特徴は、彼が省内で十全にリーダーシップを発揮できない原因のひとつになったことは間違いない。
  • 二度にわたって仕えた小村寿太郎からは多くの薫陶を受けた。とりわけ条約改正事業に奮進する小村から、幣原はリーダーシップを学んだといえる。その様子を二年半にわたり間近で見続けた経験は、能吏として頭角を現しつつあった幣原に、そう遠くない将来、リーダーとして外務省を牽引していかねばという自覚を促したであろう。幣原が小村から受け継いだのは、外交交渉にかける信念情熱と、粘り強く事に当たる泥臭さだった。
  • 排日土地法とは、正式名称を「カリフォルニア州外国人土地法」といい、帰化能力のある外国人には米国人同様に不動産所有権を認めるが、帰化できない外国人の土地所有を禁ずることを定めた法律だった。これが日本人を明確にターゲットにしたものだと認識され、日本では排日土地法と称された。
  • 幣原は1915年から19年までの約4年間の外務次官時代にこそリーダーシップを発揮した。彼を取り巻く2つの環境がそれを可能にした。ひとつは、「新外交」の理念に基づく新たな国際環境である。もうひとつは、外務省内の人的環境である。
  • 幣原は、実のところ普遍主義を活動原理に据える国際連盟に対し冷淡だった。高く評価するどころか、むしろ否定的な見解を示していた。
  • 「円卓会議」と称して国際連盟と距離を置き、政策派閥としての連盟派と交わることの少なかった幣原のキャリア形成のあり方が、のちの満洲事変への対応時に弊害として現れてくる。皮肉にも主流であり続けたことが裏目に出たのである。
  • 新四国借款団とは、英米日仏の4国の銀行団が1920年に結成した、対中国投資団のことである。米国はモンロー主義による孤立政策を大きく転換し、中国市場への介入に乗り出したのである。
  • 幣原は、満蒙権益の確保を至上命題と捉えた。彼は、満蒙権益は日本の正当なる権利と理解していた。幣原は、日本にとっての満蒙権益がいかに特殊でかつ重要であるかを単に説くのではなく、英米両国とりわけ米国が構想する共同事業範囲との整合性を図ることを何よりも重視していた。幣原は、次官としてのリーダーシップを発揮し、「列挙主義」の方法で日本の権益を確保するための基盤を整えたのである。
  • 幣原は力の政治を軸とする旧来の帝国主義的な協調外交を脱し、新しい外交理念に基づく国際協調を追求していくことに、日本としての国益を見出した。幣原外交の特徴は、「旧外交」時代から継承した外交課題を、「新外交」理念に沿いながら解決しようと試みるものだった。
  • ワシントン会議期間中に、加藤友三郎は幣原を「君はお人好しで、自惚れているからいかん」と諭した。
  • 公表外交とは、外務省が公表しても良いと判断し主体的に選別した文書を国民に提供し、外交に関する国民の興味や関心を高める。それによって、外交への理解を国民から調達し、外交活動の推進力に変えていこうというねらいに基づく活動である。
  • 道理に合わないやり方、相手を誤魔化したり、だましたり、無理押しをしたりすることを外交と思ったら、それは大間違いであって、外交の目標は国際間の共存共栄、即ち英語でいわゆる [live and let live] ということにあるのだ。
  • 中央集権的な近代国家としての体制が整備されておらず、各地に軍閥が割拠する状態を幣原は「無数の心臓」と形容した。中国内政不干渉主義はこのような外交観と中国観に支えられ、貫かれていた。
  • 中国本土は、幣原が推進する産業立国策としての通商外交にとって、魅力的であると同時に重要な地であった。産業立国策は、戦争や武力的威圧などの手段で海外に領土や利権を求めることを否定し、国際社会との軋轢を生む非合理的な手段を回避する幣原外交に適う政策だった。
  • 幣原は、中国が不平等条約を強いられた過去の歴史には同情と理解を示すが、その改正には正当な手順を踏むことを求めていた。
  • 関税自主権を回復させ国内綿産業を保護し育成することによって、自国の綿産品を市場に供給することが、財政の不安定な中国政府にとって何よりの大きな課題だった。
  • 革命外交とは、中国国民政府が、列国との間に締結されてきた不平等条約の一方的な破棄を宣言し、失った利権を回収しようとするものである。
  • 革命外交は、幣原にいわせれば、合理性を欠いた非常識な手段であった。また、国際法や国際社会のルールを無視しており、当時の国際通念に照らしても常識を大きく逸脱していた。
  • 「堅実に行き詰まる」とは、重光葵(上海総領事・臨時代理公使)が編み出した、いずれ近い将来日中両国が衝突にいたった際、日本の方にこそ正当性がある、なぜならやるべきことはやりきった、と対外的に説明できるものでなければならないとの方針である。
  • 幣原は、陸軍と協調的な亜細亜派に押し切られた。次官としてよりも大臣としてのほうがリーダーシップを発揮できなかったという、逆説としての外務大臣であった。
  • 幣原外交が行き詰まった最大の原因は、東アジア情勢の劇的な変化である。
  • 幣原外交が行き詰まった原因は、外務省内のセクショナリズムと地域主義にもあった。
  • 幣原が外交方針の柱とした対英米協調や対中国内政不干渉は、ひとつの行動規範に過ぎなかった。そうした規範は、中国による革命外交に直面し、英米各国との足並みが乱れると、柔軟性を欠いたまま硬直化し機能しなくなった。
  • 日本国憲法第9条に連なる戦力不保持の発案者は、マッカーサー以外には考えられない。
  • 幣原は、GHQ憲法草案に触れるまでは、象徴天皇制も戦力不保持も構想していなかった