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歴史や政治を中心に本の要約を紹介します。たまにゲームレビューも。

広田弘毅

 

きっかけ

幣原喜重郎』(中公新書)をきっかけに、私の中で昭和戦前史ブームがおきています。私がわかってないことだらけと気付き、読書欲をそそられているのです。その中で、広田弘毅という首相・外相・外交官がいたことを私は初めて知りました。

著者は?

どんな本?

  • 日露戦争後、職業外交官の道を歩み始め、欧米局長・駐ソ大使など要職を歴任した広田弘毅満州事変以降、混迷を深める一九三〇年代の日本で、外相・首相として、欧米との協調、中国との「提携」を模索する。しかし、二・二六事件以降、高圧的な陸軍と妥協を重ね、また国民に広がる対中国強硬論に流され、泥沼の戦争への道を開いた。東京裁判で唯一文官として死刑に処せられ、同情論が多い政治家・広田の実像に迫る。

感想

  • 広田弘毅について予備知識のまったくなかった私ですが、服部先生の巧みな文章の流れに乗って、すいすいスラスラと読み進めることができました。広田弘毅という人物を一通り知る分には十二分の内容です。
  • しかしながら、政治判断、外交判断の理由やその良し悪し、背景まで理解するには深堀りが足りない印象。例えば、広田は外務省主流派を歩まず幣原と距離を置いていたとの解説があります。しかし、そのように説く理由や根拠が薄いので、いまいち納得感がなく、「えっ、そうなの?」と逆に疑問符が生じました。
  • 出典からの引用は豊富なのです。それによって臨場感が高まるのもわかります。でも、それだけで終わってしまうせいで、必ずしも説得力に結びついていないんだよなぁ。
  • 全体に、広田弘毅を語る上で肝心の出来事や発言、行動について、十分に紙幅を割いて説明すべきところがあっさりしているせいで、浅い印象を持ちました。
  • 広田について、肝心なところで押しが弱く、そのせいで難局を打開できず国益を損ねた、というふうに描いています。
  • もし広田が外交官ではなく陸軍士官学校に進み、その後首相となっていたら?ふとそんな歴史のifが頭をかすめました。
  • 東京裁判が進行し、絞首刑となるまでの、広田と家族との微かなやり取りが描かれています。それはまるで、テレビドラマのような美しさと切なさに溢れています。

メモ

  • 成績優秀な広田は、家計に負担をかけないために陸軍士官学校を志望した。しかし、三国干渉に衝撃を受けた広田は、どれほどの軍事力を備えていても外交が無力であっては元も子もないと悟り、17歳にして外交官を志した。
  • 広田は一高を卒業すると、東京帝国大学法科大学政治学に入学した。
  • 広田は第14回外交官試験に落ちてしまったが、第15回の外交官試験を首席で通過した。
  • 同郷の先輩である山座円次郎は広田をこう諭した。「我が国の外交官として立つのには、先ず支那、東洋問題を十分研究することが必要である」
  • 広田は出世頭の幣原を羨んで、アンチ幣原熱を高めていた。
  • 1911年に他界した小村寿太郎について広田は、「小村侯程信念の強い、国を思う念の強い外交官は稀ではなかったか」と偲んでいる。
  • 局長、次官、駐米大使、そして外相というすべての主要ポストを歴任し、さらに首相にまで上りつめる幣原は、まさに日本を代表する外交官だった。
  • 1920年代に外務省で花形とみられたのは、広田の欧米局ではなく亜細亜であった。
  • 広田の欧米局にとって最大の課題は、ソ連との国交樹立だった。広田は、亡き小村と山座が心血をそそいだポーツマス条約の効力に着目し、それがいまでも有効であることを日ソ基本条約ソ連に認めさせたのである。
  •  駐ソ大使の広田は、満州事変から満州国建国にいたる難局でねばり強く交渉してソ連の不介入を引き出し、広田・カラハン協定などの成果を上げた。漁業や貿易、さらには満州事変や満州国をめぐって複雑な対ソ交渉をこなし、急速に評価を高めていた。
  • 1933年9月に広田は、内田康哉外相の後任として斎藤内閣の外相に就任した。幣原派と距離を置いたことが幸いして外相に就任した広田は、斎藤内閣のみならず次の岡田啓介内閣でも留任し、1930年代の主役にのし上がっていく。
  • 広田は、貴族院での演説で「万邦協和の大精神」という気構えを示した。そこから広田の穏健な外交方針は、「協和外交」と呼ばれるようになる。広田の協和外交は、内田の焦土外交をやんわりと否定し、列国との協調を軸とした日本外交本来の軌道に引き戻すものといえよう。
  • 広田は、ソ連やドイツなどの列国、さらには中国にも事実上の満州国承認を求めつつ、同時にイギリスやアメリカとの関係を改善しようとした。
  • 1935年、ついにソ連満州国北満鉄道の譲渡について協定を結んだ。1年9ヶ月を費やした交渉が妥結したのである。ソ連との緊張緩和は、第1次外相期で最大の功績といってもよい。
  • 広田の描く「日中提携」とは、日本陸軍とは一線を画しながら王朝銘らの親日派と連携しつつ、政治と経済の両面から緊密な関係を構築しようというものであった。
  • 広田は、対英米協調という基軸のしっかりした幣原とは異なり、理詰めの思考を好む重光とも対照的である。
  • 日中双方の大使館昇格は、広田外交の転落すらもたらしかねない危険性を含んでいた。
  • 華北分離工作とは、日本陸軍による中国の華北地方から国民政府の影響力を排除しようという強硬策である。
  • 広田3原則と呼ばれる対中方針は、中国側からすれば得られるものはなく、「日中提携」の根本方針とはなりえない。中国の対日感情は悪化し、親日派の立場は危ういものとなった。
  • 広田は王朝銘らとの関係や経済面での交流を軸に「日中提携」に努めており、その頂点が大使館への昇格であったものの、そのことがかえって日本陸軍出先の華北分離工作を招くきっかけになった。そこで広田は、広田3原則に陸軍の意向を受け入れるようになり、対中交渉が行き詰まる中で親日派の衰退を招いたのである。