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歴史や政治を中心に本の要約を紹介します。たまにゲームレビューも。

戦前日本のポピュリズム

 

きっかけ

「なぜ日本はアメリカと戦争を始めたのか?」私が小学生の頃から抱き続ける疑問です。昔は、学校教科書や歴史まんがのイメージから、「軍部が暴走して日本を戦争に引きずり込んだ」と理解していました。しかし大人になってから多様な書物や論評に触れるうち、要因は決して単一ではなく、色々なものが相互に複雑に作用し合った結果、どうにも解決しようがなくなったのだと解釈するようになりました。もちろん、これだ!という説明はまだ見出していません。

本書はポピュリズムという観点が目新しいと感じ、購入しました。

著者は?

どんな本?

  • 現代の政治状況を表現する際に使われる「ポピュリズム」。だが、それが劇場型大衆動員政治を意味するのであれば、日本はすでに戦前期に不幸な経験があった。日露戦争後の日比谷焼き打ち事件に始まり、天皇機関説問題、満洲事変、五・一五事件、ポピュリスト近衛文麿の登場、そして日米開戦へ。普通選挙制と二大政党制はなぜ政党政治の崩壊と戦争という結末に至ったのか。現代への教訓を歴史に学ぶ。

感想

  • 引用を多く取り入れた文章が特徴的。これにより、人物の思想や意思、社会の空気が直接伝わるため、臨場感を高めています。一方で、引用ばかりで著者の分析や主張が見えず、引用文が戦前の文章ということもあって、読み疲れを起こすこともありました。 
  • 日比谷焼き打ち事件は確か中学校で習いましたが、ちょっとした騒ぎくらいに想像していて、多数の死者が出たり、派出所の7割が消失するほどの大惨事だったとは知りませんでした。
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  • 100年前の昔話なのに、読みすすめるうちに「あれっ?」と既視感を覚えます。一部分を切り取ったわかりやすい動画や刺激的なフレーズによってネット世論が煽り立てられ、そのネット世論が過剰に当事者を攻撃し叩きのめすことであたかも社会を動かすかのごとき様相を呈している昨今の日本との相似です。
  • 知れば知るほど、既視感がより強く押し寄せてきます。日本の一国民として、感情論や単純化になびかず、何のための政策か・誰にとって利益があるかを熟考し行動しなければとの思いを新たにしました。

メモ

  • 吉野作造は、1905年の日比谷焼き打ち事件により「民衆が政治上に於て一つの勢力として動くという傾向」が日本で始まったと見ている。
  • ポースマス講和会議に対して、ほとんどすべての新聞が講和条約批判する立場を取った。こうしたなか、ほとんど唯一政府の立場に立って賛成したのは徳富蘇峰の『国民新聞』であった。
  • 屋外の政治集会は自由民権運動にも初期社会主義運動にも存在したのだが、それらは主催者が行動するのを参加者が観覧するものにすぎなかった。
  • 1905年9月の「国民大会」において初めて、決議の可決をする参加者としての政治的大衆が登場することになった。また、「国民」という特定化されていない参加者が想定されることになったことも特質と言える。
  • 国民新聞社には4000人が押し寄せ、石などを投げ込み乱闘が続いた。
  • 群衆はその後暴行を繰り返し、7日までに警察・分署11箇所、派出所258箇所が破壊・放火され、東京市内の派出所約7割が消失した。
  • 死者17名。負傷者は警察官など約500名、群衆2000〜3000名。逮捕者約2000名。
  • 日露戦争の戦勝祝捷会や提灯行列において、すでに群衆は現れて死者まで出る状態となっており、また主催者として彼らを先導した新聞社の影響力もすでに明確に現れていた。
  • 新聞の激しい反対運動が日比谷焼き打ち事件を誘発した有力な原因であることは間違いないが、それがのちの憲政擁護運動(護憲運動)・普通選挙要求運動(普選運動)につながったことも否定できない。
  • こうした講和条約反対運動の形成にあたっては、新聞社もしくは新聞記者グループが中軸になり、そこに政党人、実業団体員、弁護士が加わって中核体が構成されている。
  • 新聞に支えられた講和条約反対運動が日比谷焼き打ち事件のような暴力的大衆を登場させ、またのちの護憲運動・普選運動をも準備したのである。両者は最初からぴったりと結びついており、切り離すのは難しいものなのであった。
  • 日比谷焼き打ち事件は思想的には幕末武力倒幕派から二・二六事件に至る系譜の中間的結節点になる事件なのでもあった。
  • この事件をめぐる大衆像には、批判と同調の両義性がある。
  • 日本の世論の中国に対する厳しさのなかには、事件への被害者意識・報復意識と、それが国民の犠牲を払った満蒙を失うことにつながるとする危機意識とがあった。
  • 大正期のポピュリズム的運動はナショナリズム平等主義の2つに方向づけられた。このうちナショナリズムの方向性は中国に向かい、またアメリカに向かった。平等主義は普通選挙要求運動において最大の高揚を見せたが、なかでもそれが非暴力的性格を勝ち得たことは画期的成果であった。
  • 普選要求運動から普選の実施に至る間の小泉又次郎ら普選関係者の非暴力主義的運動の成果がきわめて大きいことはもっと賞揚されてしかるべきであろう。
  • 若槻内閣崩壊の実相は、朴烈怪写真事件で追い詰められていたところに金融恐慌が発生して最後のKOパンチを食らった、ということにある。
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  • 問題は、普通選挙を控え、政策的要素よりも大衆シンボル的要素の重要性が高まっていたことを、十分理解していなかったことのほうにある。劇場型政治」への無理解が問題なのであった。
  • 複雑なる政策問題では民衆的騒擾は起こるものではない。政府が皇室を蔑ろにしたという簡単なる合言葉は耳から耳に容易に伝わり伝わるごとに人の感情を激するの度を増すものである」(上杉慎吉
  • 朴烈問題で「天皇」の政治シンボルとしての絶大な有効性を悟った一部の政党人が、以後これをたびたび駆使し、「劇場型政治」を意図的に展開することに成る。
  • 健全な自由民主主義的な議会政治の発達を望む者は、「劇場型政治」を忌避するばかりではなく、それへの対応に十分な配慮をしておかなければ若槻と同じ運命をたどることになるだろう。
  •  新聞は二大政党政治の開始に期待感を表明しつつも「政権本位」の現状を危惧するというような報道に終始したのである。馬場恒吾は「政権獲得意識のみで生きる政党、政治家」に失望感を表明し、吉野作造は、”両党の現状に失望した、むしろ無産政党に期待する”という意見を発表したのであった。これが当時の多くのマスメディア・知識人の傾向だったのである。日本二大政党政治の不幸な出発と言うしかないであろう。
  • 「大きな声では言われぬが、普選法による有権者には有象や無象が多く、政綱や政策を見て賛否を決するよりも、候補者の閲歴や声望に基づく有名無名が、彼らの判定する人物的上下の標準となる場合が多い。」(高畠素之)
  • 1929年、貴族院田中義一首相問責決議案を賛成172対反対149で可決した。貴族院の内閣弾劾決議は憲政史上初である。当時は以下のような論調が圧倒的多数派だった。「貴族院が今回の如き断固たる態度に出たことは、その背後に国民多数の意思が動いているという自信があるからであろう。衆議院にして有効にこれを窮迫弾劾し得ざる以上、等しく帝国議会の一部たる貴族院が、今回の如き挙にかりて、政府の進退を問うのは、まことにやむをえない」(東京日日)
  • 不戦条約文中にあった"in the names of their respective peoples"(人民の名において)という文言は天皇大権の干犯であるという攻撃が行われはじめ、1928年9月末から政治問題化した。
  • 日本の大衆デモクラシー下の政治抗争において、天皇シンボルが持つ大衆動員力には党派を問わず抗しがたい魅力があったということなのである。天皇シンボルのポピュリズム化がこの時期大きく加速化したとも言えよう。
  • 田中内閣の倒壊とは、天皇・宮中・貴族院と新聞世論の合体した力が政党内閣を倒したということである。しかし、「腐敗した」内閣であっても政党内閣は野党によって倒されるのが健全な議会政治の道なのであり、これは不健全な事態である。「政党外の超越的存在・勢力とメディア世論の結合」という内閣打倒の枠組みがいったんできると、「政党外の超越的存在・勢力」が入れ替わることにより、それと「メディア世論の結合」による政党政治の崩壊が起きやすくなるからである。
  • 実際、「軍部」「官僚」「近衛文麿などと形を変えてそれは再生されていき、政党政治は破壊されることになるのである。
  • 天皇の政治シンボルとしての肥大化が、以後の時代に天皇シンボルのいっそうの政治的利用や「天皇親政論」的発想、すなわち天皇ポピュリズムを導き出すことになるのだが、政党人にその自覚は乏しかった
  • マスメディアは、こうした天皇シンボル型ポピュリズム的問題と既成政党政治批判ばかりをセンセーショナルに報道し、せっかくの二大政党成立の時代に、その健全な育成に意を注がなかった。
  • 吉野作造は田中内閣を「空前の最悪内閣」とし、「下院」を「不自然なる多数」の「一政党の横暴」と攻撃したが、普通選挙が行われている以上、結論的には「人民」にその責任を求めざるをえず、そのデモクラシー論は一つの破綻をきたしたと言わざるをえない。
  • 天皇ポピュリズムに走るのは政治的に苦しい立場に立たされたときなのである。
  • かつては軍部大臣文官制を唱えて軍閥批判の急先鋒であった犬養毅が、政友会を代表して軍令部の味方をし、立憲主義を謳う浜口・民政党が「非立憲的」と批判される国会となった。前者は明白なポピュリズム的傾向であり、後者は内閣の瓦解による次の選挙の敗北を防ごうとしたのであればポピュリズム的傾向とも見られよう。
  • 統帥権干犯問題や幣原臨時首相代理失言事件など、天皇シンボルの政治的利用が繰り返され、拡大されて、天皇の政治的権威・重要性はさらに強化された。
  • ロンドン海軍軍縮条約締結は浜口内閣の傑出した成果だが、天皇・宮中グループと新聞世論の強力な支援により批准承認という最大の試練を乗り切ったという事実は、実は田中内閣倒壊の際の政治構造と、かなりの程度同じ構造の裏返しの表現であった。
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  • ロンドン海軍軍縮条約問題のときに国際協調主義の財部・若槻全権の帰国を大歓迎で迎えた同じ国民が、国際的孤立の道を進めた松岡脱退全権を大歓迎で迎えることになる。
  • 「豹変」の危うさこそ、ポピュリズム外交の危うさなのである。
  • 軍制改革による圧迫と満蒙問題の急迫という天秤状態のなか、結局後者(満蒙問題)のウェイトが大きくなり、対外事変が勃発し、前者(軍制改革)は存在自体が忘れられていった。
  • 「暴発」の背後には、そもそも大正末期以来の軍縮期の軍人に対する待遇の失敗があった。
  • 戦争と、マスメディアによるその大々的報道という最大の劇場型政治が展開され、世論は急速にその支持に傾いていった。政党人はほとんどそれを追認するばかりで、適切に対処できなかった。
  • 対外危機は大衆デモクラシー状況におけるポピュリストの最大の武器である。戦争に至らぬ形で国民世論の支持を取り付けつつ、対外危機をどのように克服していけばよいのか。対外危機におけるポピュリズム型政治の克服という課題は今日に残されたままなのである。
  • 国民の社会意識という点で言うと、1933年の最も重要な出来事は実は前年に発生した五・一五事件の裁判が開かれ、その報道が大々的に行われたことであった。
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  • 8月に入るころには彼ら被告人の主張する「元老・財閥・政党等特権階級」への批判がほとんどそのまま正当化される言説が展開されることになる。また、「小説的・物語的面白さ」はたえず追求されていく。
  • 開廷2ヶ月が経った夏の終りごろにはこうした扇動的報道が完全に功を奏し、もはや公判は、やや大げさに言えば誰が犯罪者かわからないような状況になってくる。そして、扇動的になればなるほど、そこには「義士」「忠臣」が現れ、「涙」や「すすり泣き」が支配する場となるのである。
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  • 大正後期以来の、官僚優位を打破し政党の「政治優位」を確立するための施策が、実情としては「政党専横」とも受け止められるものになっていたのである。
  • 政党政治の時代には日本社会は分極化しており、政党政治が終わり「天皇」を中心にして「警察」のような中立的と見られた勢力によって社会が統合されることが、地域や国民の側から望まれるような構造が存在していた。
  • この時期ポピュリズムの方向はこうして政党から「中立的」「無党派的なもの」(天皇・官僚・軍部など)に向かったということである。
  • 1932年10月、松岡洋右が正式に全権に任命され、ジュネーブ会議に出発した。政府の訓令は「連盟側をして或程度に其の面目を立てつつ事実上本件より手を引かしむる様誘導すること」というものであった。日本が国際連盟を脱退するなどとはどこにも書かれていない。
  • 当時、日本の多くの有識者に支持されていたのは「連盟非脱退論」であった。日本の行動がよくないと指弾されても、制裁などはないのだから無視してそのまま居続ければいいということになるわけである。これは「頬かぶり」論と言われることになる。
  • 1932年12月19日、全国の新聞132紙がリットン報告書受諾拒否共同宣言を出した。これだけの規模と量を合わせた共同宣言はかつてないものであった。ロンドン海軍軍縮条約に賛成で歩調を合わせた新聞メディアは、それをはるかに上まわる対外強硬論で一致したのである。
  • 日本が「頬かぶり」主義でじっと黙って待っている戦略を取っていれば、その後の国際情勢の変化のなか国際連盟で生き延びえていた可能性はきわめて高かったといえよう。勧告を聞きつつ脱退せずにすませるという「頬かぶり」戦略を放棄したことが、日本の失敗の最大の外交的原因であった。
  • 外交においては「断じて」とか「常に」という断定的な言葉は禁句であり、また結果を急ぐことも外交に求めてはいけない。(清沢洌