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クビライの挑戦

 

きっかけ

イスラームの次はモンゴル帝国に興味を持った私。杉山正明氏がモンゴル史研究の第一人者との評を知り、著作の中で特に評価が高いものを探した結果、本書に至りました。

どんな本?

13~14世紀、人類史上最大の版図を実現したチンギスの子孫クビライは、草原の軍事力を、中国の経済とムスリムの商圏と結んで空前の繁栄を実現する。従来、悪役扱いされた世界帝国の実像を鮮明に描く。95年サントリー学芸賞受賞。

著者は?

感想

  • 多くのレビュアーが告白するように、私もモンゴルについては、「暴力で他民族を蹂躙した」「一時的に中国を支配した周辺民族」という程度の理解でした。
  • その拙い理解をちゃぶ台返しのごとくひっくり返してくれるという点で、たいへん刺激的な歴史書です。
  • 一方で、良くも悪くも、モンゴル中心史観です。
  • 中国の正統史観や西洋中心史観を小気味よく揶揄するくだりに快感を覚えることもあれば、なんでもモンゴルが起源であることを前提に歴史を解釈しているだけなのではと違和感を覚えることもあります。
  • 一冊読み終えたところで、私は後者の違和感、すなわちモンゴル帝国が世界史に与えた影響を強調したいばかりに、モンゴル帝国の実績は過大に強調し、中国やヨーロッパのパワーや実績を何でもかんでも過小評価する点にモヤモヤしたものを覚えました。

メモ

  • その「文明圏」も、モンゴルの出現とともに、もはや他の「世界」や「文明」について、知らないままでいることはできなくなった。ここに、「世界史」は、はじめてその名にあたいする一個の全体像をもつことになった。
  • モンゴルを「文明の破壊者」とする考えは、ふるくからくりかえされてきた。
  • ひとくちでいえば、モンゴルは中国にとって災厄でしかなかったというのが、これまでの「常識」である。
  • モンゴル時代の杭州は、南宋宮廷・中央政府がなくなっても、支障をきたさないくらいの別種の繁栄をむかえた。これは、おそらくは世界史上でも、はじめてのことであった。
  • モンゴルも、戦争につきものの破壊と殺戮はおこなった。しかし、それは「モンゴルの大虐殺」という安直なイメージによりかかった歴史家たちが、幻想を拡大再生産してきたほどに極端なものであったとはおもえない。
  • ティムール朝の治下で中央アジアが繁栄の頂点にあった15世紀、東方の明は中国史上でもまれにみる低落と暗黒のなかにあった。オスマン朝はまだまだ発展途上であった。ロシアは、「文明」にはほどとおかった。ヨーロッパは、黒死病の衝撃から立ちなおれずにいた。15世紀は、中央アジアだけが光りかがやいていた。
  • 「タルタル」とは、「タタル」のことである。しかし、それが「タルタル」と発音されることによって、ギリシア語・ラテン語で「タルタロス」、すなわち「地獄」という連想がかさなった。
  • ロシアは、むしろモンゴルの支配をうけることによって、世界帝国モンゴルの経済・文化・流通の体系のなかに組みこまれることとなった。
  • 「タタルのくびき」は、ロシアにあっては、ながい歴史を通じて権力者の正当化と民族意識の昂揚のための手段であった。
  • モンゴルへの悪評が決定したのは清代であった。
  • 世界システム」論とは、16世紀以降、世界が完全に一つになってしまった現代になるまで、西欧を中心に、地球上の各地はしだいにひとつの「世界システム」の体系のなかにとりこまれ、意図するとしないとにかかわらず、全体でひとつのものとして機能していたという考えである。西欧における生産を頂点に、地球上の各地は見えざる手でそれぞれの役割をはたし、全体でひとつのシステムとしてリンクしていたのだ、という主張である。
  • 漢文の記録というのは、大変すぐれたものであるが、文化伝統がありすぎるためか、ややもするとほめるかけなすか、どちらかに極端に傾きやすい体質をもっている。くわえて、自分たちとおなじ価値体系のことについては饒舌だが、それ以外の世界のこととなると、とたんに冷淡になりがちである。
  • モンゴルはモンゴルを殺さない。それが、モンゴル帝国という共同体の特徴である。
  • 権力の多重構造は、モンゴル帝国をつらぬく大きな特徴であった。
  • モンゴル帝国は、1260年を頂点とする紛乱によって、たしかにそれまでのように帝国全体がひとつとなって大遠征をくり出すことはなくなった。しかし、モンゴル帝国というシステムは、表面上の不和・対立とは根本においてかかわりなく、維持されていた。
  • 1260年前後をさかいとして、モンゴル帝国は、その内側にさまざまな対立をかかえながらも、大カアンの中央政権のほかに幾つかの複数の政治権力の核をあわせもつゆるやかな多元複合の連邦国家に変身しはじめたのである。
  • 中華帝国の本質は、厖大な軍隊と官僚体制、それをささえるための地方組織という名の徴税機構、およびそれらの人事の中央管理、そしてそれらもろもろの結果としての巨大な中央機構と巨大な首都であった。これらの「ハード」な側面は、クビライのえらたな巨大国家構想にとっては、きわめて有益な参考例にちがいなかった。
  • クビライは、さまざまな事例やパターンを参考にし、その有益な部分はとりこみながらも、根本においては、自分とブレインたちによって、あたらしいなにかを創造しなければならなかった。それは、人類史上、最大の規模における創造なのであった。
  • クビライ新国家の基本構想は、草原の軍事力、中華の経済力、そしてムスリムの商業力というユーラシア史をつらぬく3つの歴史伝統のうえに立ち、その三者を融合するものとなった。
  • チンギスの国家草創を第一の創業とすれば、これはまさに、第二の創業とよぶにふさわしい根本からの変容であった。
  • クビライとその側近グループたちは、遊牧世界と農耕世界、さらに海洋世界という3つの異なる世界のジョイントを構想したのである。それを、全ユーラシア規模でやろうとしたのである。
  • 西暦1264年から1294年までのクビライの治世の間は、ユーラシア史上まれにみる大建設の時代となった。
  1. 夏営地と冬営地をむすんだ季節移動圏のなかに、新帝国の軍事・政治・経済の諸機能を集中させることで、「面」としての首都圏を創出した。
  2. 古代の理想プランをもとに、渤海湾と大都をつなぐ運河や陸上道路網を建設し、まったくなにもないところにユーラシア世界全体の中心となる巨大帝都を一挙に出現させた。
  • 南宋作戦はいくつかの難しさをともなっていた。
  1. 長江をはじめとする大小さまざまの河川や湖沼。
  2. 南宋の常備水軍。
  3. 江南の湿気と炎暑。
  4. 淮水流域の帯状の「空白」。
  5. 南宋城郭都市の防衛能力。
  • クビライは、ユーラシア大陸で最大の富をほこる江南を、ほとんど無傷のうちにそっくりまるごと手に入れた。
  • 南中国を手に入れたことで、モンゴルは遊牧民出身の国家でありながら、海の世界にも進出することとなった。
  • 文永の役」は、第二次南宋作戦の一環である。
  • モンゴルにとって、南宋接収後の海上戦力の組織化をためす最初の機会が、第2回めの日本遠征「弘安合戦」であった。
  • 「江南軍」は、人類史上において、おそらくはほとんど最初で、あきらかに最大の、「外洋航海」をした大艦隊であった。
  • 13世紀のすえころには、中国からイラン・アラブ方面までにいたる海域とそこを通る海上ルート全体が、モンゴル政権の影響下に入った。それは、モンゴルによって、ユーラシアの内陸世界と海洋世界が完全にジョイントしたことを意味した。
  • クビライの国家において、とりわけて注目すべき点は、もともとは遊牧軍事力を基盤とする軍事政権でありながら、けっきょくは軍事力の支配にたよらず、むしろ経済の掌握こそを国家経営の主軸にすえたことである。
  • クビライは、「オルトク」とよばれる会社組織のこうしたムスリム商業・起業家集団の力を活用して、物流・通称をうながし、産業化を促進させようとした。そして、それとつながる有力な人物を財務官僚に採用して、政経一致で経済政策を推進しようとした。
  • ムスリム商人たちは、自分たちの商圏のいっそうの拡大とより大きな利潤のため、モンゴルの軍事力・政治力を利用した。モンゴルもまた、そうしたムスリム商人たちの資本力・情報力・通商網を利用して、みずからの遠征と拡大を円滑にみちびいた。
  • クビライ政権は、現実を直視し、経済・商業を重視して、利益追求を本能とする商業・企業集団をむしろすすんで育成した。その国家経営の中心が、尚書省であった。
  • 尚書省の管轄・職掌を、現在の日本国政府の省庁にあてはめていえば、大蔵・通産・運輸・建設・農水・郵政・科学技術・経済企画・国税をすべてとりまとめたものにあたる。
  • 国家が主導する自由な経済活動によって、国家・社会がうるおい、それによって人間の活動・精神や行動の範囲、さらには生きてゆくかたちも、さまざまに多様化・活発化する。こうした状態は、近代以降の西欧における国家と社会、そして資本主義のありかたと酷似する。クビライ帝国のシステムは、それらに先行するものとして、世界史上できわめて注目にあたいする。
  • ユーラシア世界において国際通貨の役目をはたしていた銀は、まずモンゴル帝国の出現、ついでクビライ新世界帝国の成立という2つの段階をへることによっていまや「世界通貨」への道をあゆみはじめていた。そして、「大航海時代」以後の厖大な新大陸の銀の到来によって、世界全体が一挙に銀を共通の価値とする「銀世界」となる。モンゴルはその条件をととのえた。
  • 1330年代から、モンゴルの東西は、混乱し、ゆらぎ、しだいに沈みこんでゆく。原因のひとつは、異様なほど長期で巨大な地球規模の天変地異であった。
  • 1346年より黒死病が、エジプト、シリア、東地中海沿岸部、そして西欧を襲い、国家と社会を破滅においこんだ。おなじころ、中国でも黄河が大氾濫し、悪疫が華北・華中を襲った。
  • どうして首ライトそのブレインたちが営々としてつくりあげた国家と経済のシステムは、こうまでもろくもくずれさったのか。構想と実現への努力をささえるべき技術力、技術水準が低すぎたからだ。
  • クビライの大元ウルスは、永続しなかったけれども、そこで総合化されたそれなりに強固な軍事・経済のシステムをもつ「巨大国家の方式」を、ひきつづく時代にのこしていった。