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北方領土交渉史

 

どんな本?

  • 「固有の領土」はまた遠ざかってしまった。歴代総理や官僚たちが挑み続け、ゆっくりであっても前進していた交渉が、安倍外交の大誤算で後退してしまった内幕。
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    雪解けが近づいたこともあった。しかし現在、ロシアとの交渉には冷たい氷の壁が立ちふさがり、「固有の領土」はまた遠ざかってしまった。戦後、歴代総理や官僚たちが使命感のために、政治的レガシーのために、あるいは野心や功名心に突き動かされて、この困難に挑み続けてきた。そして、ゆっくりとであっても前進していた交渉は、安倍対露外交で明らかに後退してしまったのだ。その舞台裏で何が起こっていたのか。国家の根幹をなす北方領土問題を、当時のインサイダー情報も交えて子細に辿りながら、外交交渉の要諦を抽出する。
  • 鳩山、中曽根、安倍晋太郎小沢一郎、橋本、安倍晋三の対露外交を描く。

感想

  • 良質なルポ、あるいはドキュメンタリーで、緊迫感のある歯切れのよい文章にグイグイ引き込まれます。1時間くらいあっという間に過ぎます。
  • 政治的なアプローチが駄目なら経済的なアプローチで、という安倍外交の戦略を賢いなと感じるのは、自分が一介のサラリーマンだからでしょうか。この戦略がもし成功していたら?いや、もともと成算のない戦略だったのか?
  • しかし、結果的には、したたかなプーチン外交、そのプーチンに利用された愚かな安倍外交、という図式。
  • 途中から、ちょっと話がまどろっこしくなってきました。それだけ北方領土問題が複雑ということなのでしょう。私は仔細な知識を必要としていないので適当に読み流しましたが、丹念に外交交渉を追っていくのもまた楽しいでしょう。
  • 2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、私にロシアやプーチンに対する関心を呼び起こさせました。ロシアとはどんな国なのか。プーチンとはどのような人物なのか。そんな疑問にも答えてくれる良書です。
  • 佐藤優の著書を読み返したくなり、実際ちょこっと読み返しました。

メモ

  • 鳩山にとって何より重要だったのは、シベリア抑留者帰還問題だった。
  • 杉原荒太は、吉田茂が事実上外務省を追放した外交官で、政界入り後は外交問題にズブの素人の鳩山の諮問に常々応じ、とりわけ、鳩山が進めた日ソ交渉においてはその裏方として活躍した知る人ぞ知る有能な外交ブレーンとなった。
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  • ライバルの吉田がやり遂げられなかった残された戦後処理問題を取り上げ、鳩山政治をアピールする、それが〈日ソ国交回復〉だった。
  • 鳩山が日ソ国交回復に強い関心を示せば示すほど、重光との心理的距離はどんどん広がって行った。
  • 日ソ関係は米ソ関係であり、日米関係である。
  • 「重光の豹変」とは、重光が全権としてソ連に乗り込んだ時、第一次モスクワ交渉(1956年7月)の最終局面になって、ソ連側の強硬姿勢の前に、一転、「二島返還」で決着を図ろうと態度を豹変させたことをいう。
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  • 鳩山の考えは、歯舞・色丹両島の返還を一時棚上げにしてまず国交回復を優先して実現する「アデナウアー方式」による決着だった。
  • 外相・重光は領土問題で強硬論を続け、最終場面で腰砕けとなり、その豹変ぶりを揶揄された。
  • 野心滾らせた日本政界の実力者たちはペレストロイカ政策と「新思考」外交路線に着目、ゴルバチョフのリーダーシップに期待を寄せながら、難交渉にチャレンジした。
  • 対日関係改善を目指すソ連側の真の狙いは何だったのか。ズバリそこには日本経済の存在があった。
  • 安倍晋太郎外相は、ゴルバチョフ登場以前、既に対ソ外交を自身のライフワークと定めていた。
  • 一方の中曽根は、自身のライフワークとして北方領土問題への取り組みを位置づけており、対ソ外交の主導権を引き続き握ろうとしていた。
  • 「死んだふり解散」により衆参同日選挙で圧勝した中曽根は、一気に内閣改造を断行し、外相ポストから安倍を外すのに成功した。
  • 中曽根は、自身の後継に「外交の安倍」ではなく、永田町政治の調整と根回しに長けた「内政の竹下」を指名した(中曽根裁定)。
  • ソ連は個人本位で動く国ではなく、「制度/体系の国」と考えるキッシンジャーの対ソ認識とペレストロイカに関する鑑識眼は図抜けて確かなものだった。
  • 中曽根が後継指名した竹下政権下で、対ソ関係を実質的に取り仕切る手はずが整い始めた中曽根の元老外交だが、その政治的影響力が竹下退陣によって著しく低下した。
  • 安倍晋太郎は、リクルート事件に巻き込まれ、その最中に膵臓がんが判明、病名を隠して手術を受け、入退院を繰り返す「悲運の政治家」と化して影響力を減退させていった。
  • 中曽根は首相時代、北方領土問題をめぐる外交で実質的な成果は得られなかったものの、首相退陣後の1988年夏、稀代の外政家として踊るにふさわしい舞台を得た。それは、ゴルバチョフとの会談のためのソ連訪問だった。官僚のシナリオ抜きで、ゴルバチョフと視野広く濃密な論議が堂々とできる政治家は、中曽根を除いて当時の日本にまずいなかった。
  • 1991年の日ソ関係には、外務省の公式な外交チャンネルと、外務省を外した安倍晋太郎の独自ルート及び小沢一郎が作り上げたルートと、合計3つの外交ルートが存在するという前代未聞の現象が生じた。
  • 小沢の頭にあったのは、北方領土問題の決着に向けて実質的な成果を挙げられる可能性がある場合にしか、自分は動かないという頑固な鉄則だった。
  • 1991年4月、海部俊樹首相とゴルバチョフ大統領との首脳会談は18日深夜まで難航し、8回にわたって行われた末、共同声明には、玉虫色の文章が盛り込まれ、両首脳の署名が行われた。
  • 「声明」では、北方四島の具体名が明記され、平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが、それぞれ初めて公式文書の形で確認された。
  • ゴルバチョフが歩もうとする道には、あらゆる機会を捉えて保守派の地雷が埋め込まれていた。
  • エリツィン大統領は、西欧との関係を重視して「法と正義」を尊重する欧化主義志向と「戦勝国も敗戦国もない」対等の立場で新たな国家関係を樹立したいという熱意を持っていた。
  • 小和田恆(外務事務次官)には、「規則に基づく国際秩序」こそが、「力は正義なり」すなわち弱肉強食のジャングルのような世界のアンチテーゼとして遵守されなければならないという信念がある。
  • 戦後の東西対立がなくなり、先行き不透明になっていく過程において、日本外交には、厳格な規範重視がますます必要になった。
  • 1993年のコズイレフ秘密提案に対して、日本外交は領土問題をめくり安易な政治的妥協を排した。
  • 冷戦時代には想定できなかったこの〈大情況〉の変化は、時の橋本内閣の対露外交に好ましい影響をもたらした。戦後日本の対ソ外交に執拗にまとわりついて来た日米安保体制の呪縛からの解放が現実化されるのではないかとの論理的基盤が準備された。
  • 橋本は、外務省と通産省の主導権争いを強い政治的リーダーシップによって制御した。リーダーシップとフォロワーシップが協調して連結したことにより、とかく縦割りや主導権争いによってロスしがちな官僚パワーが倍増、日本外交の推進力へと変わったのである。
  • 「川奈提案」とは、まずは択捉島最北部とウルップ島の間に境界線を引く「国境画定」論を基礎として交渉に入り、双方が合意するまでの当分の間は、ロシアの施政権を容認するというものである。
  • 98年4月の川奈提案は、当時の日本にとって最大の譲歩案だった。だが、ロシア側の回答をもらう前に、橋本は98年7月の参院選で敗北して退陣。同年11月、後継の首相・小渕恵三が訪露したが、川奈提案の拒否が伝えられた。
  • ロシア問題に関わる者は、心の施錠を外してはならない。
  • 対ソ外交に関する限り、ソ連邦課長がクビを縦に振らないと首相や外相も大きく動けないほど強い発言権を持っていた。
  • 対ソ関係は、平時には外務省ロシア・スクールに任せておけばよいという実情あるいは深層心理が、対ソ外交をロシア・スクールの独占物にする下地になっていた。加えて、対米偏重で所与のものとなった日米安保体制に縛られた日本の対ソ/対露外交に、幅の広さと深遠さを併せ持つ機会を失わせていた。
  • 橋本龍太郎は外務省ロシア・スクールを軸に、霞が関官僚を束ねてベクトルの向きを同一方向に向けた。結束に乱れはなく、他の政治家が横槍を入れる隙すら作らなかった。
  • <リーガル・マインド型> 冷戦時代、国際法における豊富な知識/治験を最大の武器に日本外交に貢献したタイプ。規範に厳格で、国内政治には一定の距離を置き、戦後の外交的枠組みの堅守をプライオリティの最上位に置く。
  • <現場最重視型> 変幻自在に動く国内外政治の大情況の中で、目標実現のため、現場での外交活動とあわせて政治家のパワーを積極的に引き込む、攻めの外交を展開するタイプ。
  • <戦略思考型> 理念を重視しつつ、一定の枠組みの中で政治的パワーとの均衡を維持し、長期的な視点で対応しようとするタイプ。
  • 冷戦末期−終結ソ連解体と<大情況>が激変する中で、その変化に対応するため、外務省としても、「四島一括返還」という硬直化した路線にばかり固執できなくなった。
  • その一方で、「四島返還」という大義を貫くため、欧米によって構築された国際法を土台に組み立てられた戦後日本外交の枠組みを堅守できる外務官僚が主導権を握る必要性があった。
  • 冷戦期に無類の結束力を誇ったロシア・スクールだが、1998年7月、橋本が退陣すると、フォロワーたちの結束がたちまち緩んだ。ロシア・スクールは四分五裂、存在感を失っていった。
  • 橋本、小渕亡き後、対露外交のリーダーシップとフォロワーシップをめぐる規律と<官>の組織には致命的な乱れが生じて行った。この外務省内亀裂の後遺症が、その後の外務省の対露外交を弱体化させたのは疑問の余地がない。
  • 東郷が鈴木宗男佐藤優と連携して形成したのは、「二島(歯舞・色丹)引き渡し」の確保を大前提に、少なくともレトリック的には「残り二島の国後・択捉」をも協議対象(α)として交渉をつなげる「二島返還+α」論の一つだ。
  • 2001年3月、森喜朗は日露首脳会談で「歯舞・色丹の引き渡し」の問題と「国後・択捉」の主権の問題を並行的に協議する<並行協議>を提案した。
  • 安倍主導外交は、これまでの対ロシア外交とはまったく違う構図となった。安倍が打ち出した「新しいアプローチ」による対露外交は、まず<経済的視点>ありきの「経産官僚」の知見が最優先される布陣となった。すなわち、安倍対露外交は、首相官邸による「ロシア・スクールなき対露外交」と化した。
  • 安倍とプーチンとの首脳会談は、第一次内閣から数えて通算27回に及んだが、安倍訪露が11回を数えるのに対し、プーチン訪日はわずか2回である。
  • 国家主権を支える「外交の正義・倫理・法原理」がしばしば軽視され、エネルギー・ビジネスが外交に密接に絡んでくること、しかも、それが往々にして国家の根幹を揺さぶる変動要因になる。
  • 「新しいアプローチ」とは、北方領土問題を二の次に、まずは経済・エネルギー分野での日露協力を最優先させ、日露間にソフトな雰囲気を醸成する。その上で、北方領土問題に関してロシア側の柔軟な対応を引き出す、というものだ。
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