2022年3月18日 9時35分 朝日新聞有料記事(保存のためコピペ)
小学生の柔道全国大会廃止 「行き過ぎた勝利至上主義が散見される」
全日本柔道連盟(全柔連)が、毎年夏に開催していた全国小学生学年別大会を2022年度から廃止することが分かった。
1月の理事会で報告され、今月14日付で都道府県連盟宛てに廃止を通知した。通知には「行き過ぎた勝利至上主義が散見される」と理由が書かれている。
04年度から始まったこの大会は、全柔連がただ一つ単独主催する小学生の全国大会。5、6年生が対象の個人戦で、重量級と軽量級に分かれて争われる。
関係者によると、指導者が子どもに減量を強いたり、組み手争いに終始する試合があったりした。判定を巡り指導者や保護者が審判に罵声を浴びせることもあったという。全柔連幹部は「大人が、子どもの将来ではなく、眼前の勝敗に拘泥する傾向があった。見つめ直す契機にしてほしい」と話す。
これに対する為末大さんの意見の整理
全柔連が小学生の全国大会を廃止するという決定をしました。私は素晴らしい決断だと思います。なぜ若年層での全国大会を行わない方がいいのか三つの理由で説明します。
①そのスポーツが弱くなるから
- 早すぎる最適化(子どもの特性に特化した戦略)が求められるが故に、おとなになってから本来行き着くレベルまで到達できなくなる
②全ての子供がスポーツを楽しめないから
- 全国大会は選抜システム(才能の発掘)になっており、スポーツを楽しむ視点が欠如している
- 最も勝ちたいのは大人で、本人より周りが興奮している
- 親と指導者が舞い上がると、本人の主体性が損なわれ、子どもの才能が潰れる
③競技を超えた学びが得られないから
- 殆どの選手はアスリートとして食っていけないので、競技を通じて普遍的な学びを得ることが重要だが、"活躍"させるためには言われたとおりやる人間を作るほうがうまくいく。こういう選手は考える力が育っていないので引退してから苦労する。
私が感じたこと
はじめは、「行き過ぎた勝利至上主義」と言われてもピンとこなかった。私はそもそも運動音痴で、スポーツで厳しい指導を受けたりしのぎを削ったりした経験がないからだ。しかし、ツイッターで「これは勉強や他の習い事にも通じるのでは?」とのコメントがあった。これを見た私は、かつて中学受験にわずかながら関わった経験を思い出し、「行き過ぎた勝利至上主義」をうっすらとだが想像できた気がしている。
疑問① 舞い上がる大人とそうでない大人の違いとは?
「舞い上がる」とはいい気になり浮かれて、落ち着きを無くすという意味だが、私は為末氏が指摘する「舞い上がる大人」に接した経験がない。なので、「舞い上がる大人」は全体のほんの一部、ごくごく僅かな人々で、大半の大人はそこまでムキになっていないのだろうと想像してしまう。一体どういう人が「舞い上がる」のか、アスリートの親は子どもに対してどう接していたのか、という点を知りたいと思った。
疑問② 子どもがスポーツを続けているということは、楽しみを見出しているということなのは?
子どもはそのスポーツが嫌いでしょうがないのに、「舞い上がる大人」に引きずられてイヤイヤ続けて、しかも結果を出し続けるということがあり得るのだろうか。
疑問③ 成功体験があって、後から学びがついてくるのでは?
元サッカー選手が、高校時代に受けた激しいしごきを振り返りながら、笑い話の体で語る動画をいくつか見たことがある。私は人権侵害レベルの過酷な指導に嫌悪感を覚えながらも、面白おかしく語られるその内容に大笑いしている。そして、元サッカー選手たちは最後に必ずこう締める。「あの経験があったからプロでやっていけた」と。そのことを思い出した私は、学びは後からついてくるのではと思った。為末氏がいう「競技を超えた学び」「普遍的な学び」を得ることはもちろん重要である。しかし、はじめからそれを得るためにスポーツに取り組むというより、ともかく目の前の練習や一つ一つの試合に全力で取り組む経験を積み重ね、上達や勝利などなんらかの成功体験を得て、ある時振り返ったときにはじめて学びを得られるものなのでは。高校スポーツと小学生スポーツでは別物なのだろうか。