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独ソ戦

 

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

 

きっかけ

  • 2020新書大賞第1位、Amazonレビュー数は実に311件(2021年5月23日時点)。小学生時代以来、第2次世界大戦に興味・関心を持ち続けている私は、いずれ読まなければとずっと気になっていながら、他にも読みたい本があって、だらだらと本書を先延ばしにしていたのでした。
  • ある日たまたま訪れたブックオフで、たまたま本書を見かけました。ちょうどブックオフアプリの割引クーポンが発行されていたことから、ようやく購入に至りました。

どんな本?

「これは絶滅戦争なのだ」。ヒトラーがそう断言したとき、ドイツとソ連との血で血を洗う皆殺しの闘争が始まった。日本人の想像を絶する独ソ戦の惨禍。軍事作戦の進行を追うだけでは、この戦いが顕現させた生き地獄を見過ごすことになるだろう。歴史修正主義の歪曲を正し、現代の野蛮とも呼ぶべき戦争の本質をえぐり出す。

著者は?

感想

  • 断片的とはいえ、独ソ戦による悲惨な結果を知っているので、ページを繰れば繰るほど破滅に近づくことを予感し、鉛を飲み込んだような暗澹とした気分に引きずられます。
  • しかしながら、分析的で明快な文章のおかげで、冷静さも保つことができています。
  • 非常に重たい事実を突きつけられ、しばし言葉を失ってしまいます。独ソ戦といえば、スターリングラードの戦いしか知らず、それと同等規模の殲滅戦が他にいくつも勃発していたことに目眩を覚えました。
  • 第二次世界大戦で、ソ連が桁違いの死者(確か3000万人)を出したことは知っていましたが、それが何によるものなのか、またなぜなのかは知らずにいました。さらに、それだけの犠牲を出しながらも戦勝国となったことが、不思議でした。本書は、私の疑問に答えてくれました。そもそも対ドイツ戦の準備が不足していたこと、大粛清のせいで経験のある指揮官がいなかったこと、スターリンが退くなと命じたこと、ドイツ軍による捕虜の扱いが戦時法に違反し残酷を極めたこと、後期に至ってソ連軍の戦術がことごとく当たったこと、米英が同盟国としてソ連を物質的に支援したこと。
  • 「通常戦争」「収奪戦争」「絶滅戦争」という概念が新鮮であり、私が想像する戦争よりさらに上位の戦争概念が存在することに恐怖を覚えました。
  • ナチス・ドイツが生存圏を求めて東方政策をとったことと、日本が満州を生命線と認識して中国大陸に進出したことは、相似形のように思われました。

メモ

  • 西ドイツの高級軍人たちは、国防軍はナチ犯罪に加担していないとする「清潔な国防軍」伝説を広めた。
  • ドイツ軍人たちの回想録の多くは、高級統帥に無知なヒトラーが、戦争指導ばかりか、作戦指揮にまで介入し、白いとくさいミスを繰り返して敗戦を招いたと唱えた。死せる独裁者に敗北の責任を押し付け、自らの無謬性を守ろうとしたのである。
  • 日本人の独ソ戦理解を決定づけた戦記本のなかでも影響力が大きかったのは、パウル・カレル、本名パウル・シュミットである。カレルの著作の根本にあったのは、第二次世界大戦の惨禍に対して、ドイツが負うべき責任はなく、国防軍は、劣勢にもかかわらず、勇敢かつ巧妙に戦ったとする歴史修正主義だった。
  • スターリンの執務室には、独ソ戦が目前に迫っているとの警報が多数上げられていた。にもかかわらず、スターリンは耳を貸そうとはしなかった。スターリンが強制した手かせ足かせのおかげで、ソ連軍部隊は無防備かつ無警戒のまま、ドイツの侵略に直面することになった。
  • なぜスターリンは警戒措置を取らなかったのか。まず考えられるのは、イギリスへの強い猜疑心である。スターリンは、ミュンヘン会談以来のイギリスに対する不信から、イギリスはドイツを対ソ戦に誘導することをたくらんでいると疑っていた。もう一つは、1937年に開始した「大粛清」により、将校や実戦経験を有する指揮官の多くをソ連軍から排除してしまったことである。スターリンは、自ら命じた粛清によって、おのれの軍隊を骨抜きにしてしまったことを承知していた。さらに、権力集中によって、ソ連指導部からは異論が排除され、スターリンの誤謬や先入観、偏った信念が、そのまま、国家の方針となった。
  • ドイツ陸軍は、ヒトラーが開戦を決意し、命令を下す以前から、ソ連侵攻の準備を進めていた。
  • 1940年7月、ヒトラーソ連が粉砕されればイギリスの最後の希望が潰え、ドイツは「ヨーロッパとバルカンの主人」になると、国防軍首脳部に宣告した。
  • 「バルバロッサ」作戦(Unternehmen Barbarossa)は、さまざまな問題を真剣に検討しないままに立案された、純軍事的に考えても、ずさんきわまりない計画にすぎなかった。
  • ドクトリンとは、軍隊のあり方、作戦・戦闘の遂行を規定する基本原則である。
  • 独ソ戦初期において、ソ連軍は、攻撃偏重のドクトリンを固守し、指揮官の能力、兵站、整備、通信といったさまざまな欠陥を無視した反撃を行い、自壊ともいうべき大損害を出した。
  • 電撃戦という単語自体、第二次世界大戦前半の一連の戦役ののちに、外国のジャーナリスト、あるいはプロパガンダ当局が用いはじめたもので、軍事用語ではなかった
  • ドイツ軍は、第一次世界大戦の浸透戦術における突進部隊の代わりに装甲・自動車化歩兵師団を用い、敵部隊の撃滅や敵地占領は、やはり通常の歩兵師団の任であるとした。その結果、陸軍大国フランスをはじめとする各国の軍隊は、ドイツ軍装甲部隊の「突進」によって、指揮や補給のインフラストラクチャーを覆滅され、マヒしたところを、各個撃破されていった。
  • しかし、万能の処方箋であったはずの「電撃戦」は、ロシアの大地においては、必ずしも決定打とならないことが、しだいにあきらかになる。
  • ドイツ軍は表層的には勝利を重ねつつも、戦略的な打撃を与える能力を失いつつあった。ソ連軍部隊の多くに、戦闘力を残したままでの東方脱出を許し、かつ、出してはならぬ損害を出したことから、戦略的には「空虚な勝利」であった。前線のドイツ軍司令官たちも、このような事態を認識し、焦りを深くしていた。さらに、国境会戦で決着がつくものと確信していたドイツ軍首脳部は、補給を維持できるだけの充分な準備を整えていなかった。
  • 1941年7月のスモレンスク戦終了後、ドイツ軍指導部の多くは、国境会戦でソ連軍主力を潰滅させ、ヨーロッパ・ロシアの要地を占領するという目論見が画餅に帰したことを悟った。
  • 戦争論』の著者クラウゼヴィッツCarl von Clausewitz)は、敵のあらゆる力と活動の中心が「重心(Schwerpunkt)」であるとし、全力を以て、これを叩かなければならないと論じた。にもかかわらず、ドイツ軍は、ソ連にとって致命的な打撃とは何であるかを真剣に検討せず、あるいはそれはモスクワに違いないと、確証もなしに信じ込んだ。
  • 1941年12月、ドイツ軍は限界に達していた。ロシアの冬将軍が到来し、ロシアでもめったにない厳冬となった。ドイツ軍攻撃部隊は寒さにあえぎ、逆にソ連軍が全面的に攻勢に転じた。ヒトラーナチス・ドイツにとっては、一大打撃というほかない事態だった。
  • モスクワ攻防戦に敗れたのと同じころ、ドイツは、もう一つの大国、アメリカ合衆国との戦争に突入することになった。真珠湾攻撃の報を聞いたヒトラーは、1941年12月11日、アメリカ合衆国に宣戦布告する。
  • 「バルバロッサ」作戦の失敗により、ヒトラードイツ国防軍が抱いていた短期決戦構想は挫折し、独ソ戦長期化することは決定的になった。
  • 権力を握ったヒトラーは、「真空」のなかで思うがままに振る舞うことができたわけではない
  • 広範な保守エリート層にとって、ドイツがかつてのような強国の地位を取り戻すことは宿願であった。また、財界にしてみれば、自らの「広域経済圏」を確立するとしたヒトラーの構想は、歓迎すべきものであった。
  • 首相となったヒトラーは、軍備拡張を実行したが、国民に犠牲を強いることは避けた。体制への支持を失うことを恐れたためだ。
  • ナチス・ドイツの首脳部には、第一次世界大戦の際、国民に負担をかけた結果、革命によって国家が崩壊したことへの懸念、「1918年のトラウマ」があった。
  • 再軍備が工業に好景気をもたらすとともに、労働者の需要が高まり、人手不足が生じた。1938年には、実に約100万人の労働者が不足しているとされた。
  • 結果として、ナチス・ドイツ政府は、第三の選択肢へと突き進んでいく。他国の併合による資源や外貨の獲得、占領した国の住民の強制労働により、ドイツ国民に負担をかけないかたちで軍拡経済を維持したのだ。
  • ナチス・ドイツは、独裁者ヒトラーの「プログラム」とナチズムの理念のもと、主導的に戦争に向かうと同時に、内政面からも、資源や労働力の収奪を目的とする帝国主義的侵略を行わざるを得ない状態に追い詰められていた。
  • ドイツ国民は、初期帝国主義的な収奪政策による利益を得ていることを知りながら、それを享受した「共犯者」だった。
  • 独ソ戦は、「通常戦争」「収奪戦争」「絶滅戦争」の3つの戦争が重なり合って遂行された、複合的な戦争だった。
  • 食料農業省次官兼4カ年計画庁食料部長ヘルベルト・バッケは、「戦争3年目に、国防軍全体がロシアからの食料で養われるようになった場合にのみ、本大戦は継続し得る」と結論づけた。
  • ドイツのソ連占領において特徴的なのは、一元的に責任を持つ管轄官庁がないことであった。
  • スターリンソ連政府は、対独戦の名称を大祖国戦争と定めた。今度の戦争は、「祖国戦争」(1812年のナポレオンの侵略撃退)以上の国民の運命がかかった「大祖国戦争」なのだと規定したのである。
  • 1941年から1942年にかけての冬に、ドイツ軍を潰滅から救ったのは、ソ連軍が実力を顧みない総花的攻勢を強行したからであった。ところが、ヒトラーは、死守命令こそが危機を克服したと思い込み、おのが軍事的才能を信じて疑わぬようになった。以後、彼は、軍人たちの反対を押し切り、軍事的合理性にそむくような指令を乱発していく。
  • 日本の参戦により、ひとまず英米の戦力は極東に牽制されている。この好機を生かして、1942年にソ連を打倒することは、ドイツにとって至上命題だった。
  • しかし、ヒトラーと陸軍首脳部の見解は対立した。陸軍が政治的・経済的な中心であるモスクワ攻略を再び試みるべしと主張する一方、総統はコーカサスの石油を欲した。しかし、モスクワと石油の二兎を追うことは不可能である。
  • モスクワか石油かという命題に対して、ヒトラー後者を選択した。
  • 兵力不足に悩むドイツ東部軍に対し、枢軸側の同盟国であるイタリア、ハンガリールーマニアのロシア派遣軍をあてることとされた。これら3カ国の軍は、装備や訓練において、ドイツ軍に見劣りし、かつ、ソ連軍に対抗するのが困難な状態にあった。ゆえに、これらの軍が担当した正面は、ソ連軍の反攻に直面するや、堤防の決壊につながる突破口と化していく。
  • 一方、スターリンはドイツ軍が1942年にめざすのは、南部ロシアやコーカサスではなく、首都モスクワであると思い込んだ。
  • ヒトラーは、スターリングラードコーカサスの双方を狙う二正面同時攻勢に変更した。「スターリンの町」という名を持つ都市が陥落すれば、政治的な効果は大であり、しかも、それは実現可能なことだと判断されたのである。
  • 1942年7月、とうとうスターリンも、ドイツ軍の主攻勢は南部ロシアとコーカサス、なかんずくスターリングラードに向けられていると認識した。独裁者は、この人口60万の大都市を何としても守り抜くとの覚悟を固めた。すでに7月28日の時点で、スターリン「一歩も退くな」の文言で有名な、ソ連邦国防人民委員令第227号を公布していた。
  • 1942年10月、ヒトラースターリングラードの完全占領を命じた。しかし、戦況は、ヒトラーとドイツ軍首脳部が期待したようには進まなかった。ドイツ軍の打撃力は尽きかけており、しかも、ロシアの冬が忍び寄っていた。
  • 1942年11月、ソ連軍が反攻を開始した。1943年初頭の東部戦線の状況は、ドイツ軍にとっては、悪夢にひとしいありさまとなった。作戦術にもとづくソ連軍の連続攻勢は、ドイツ軍、とくに南部ロシアとコーカサスの諸部隊を、崩壊一歩手前まで追いつめていたのである。
  • 1943年1月、スターリングラード南部のドイツ軍は、ソ連軍に投降した。翌2月には、市北部の部隊も投降する。スターリングラードで捕虜となったドイツ軍将兵9万のうち、戦後、故国に生きて帰ることができた者は、およそ6000名に過ぎなかった。
  • 通常の戦争では、軍事的合理性に従い、敵に空間を差し出すことによって、態勢立て直しや反攻準備のための時間をあがなう。しかし、世界観戦争、また、それを維持するための収奪戦争の必要から、ヒトラーには、後退という選択肢を採ることはできなかった。
  • 一方、スターリン外交の眼目は、断固たるドイツの打倒へと進んでいた。スターリンはもはや、ドイツとの単独和平の選択肢を完全に捨て去っていた。そうした決断に大きく与っていたのが、西側の大国、米英との「大同盟」であったことはいうまでもない。
  • 1944年6月、スターリンバグラチオン」作戦(Белорусская операция)を開始した。この名称は、ナポレオンの侵攻に抗した帝政ロシアの将軍にちなんだものである。西のノルマンディ上陸作戦をはるかに上回る巨大な会戦であった。結果は、ドイツ軍にとっての破局にほかならなかった。この敗北によって、ドイツ国防軍は脊柱を折られ、とどめを刺されたといってよい。
  • ヒトラーは、敗北直前にあってもなお、対ソ戦を、交渉によって解決可能な通常戦争に引き戻す努力をするつもりなどなかった。「世界観戦争」を妥協なく貫徹するというその企図は、まったく動揺していなかったのである。
  • ドイツ国民はなぜ、絶望的な情勢になっているにも関わらず、抗戦を続けたのだろう。ナチ体制は、人種主義などを全面に打ち出し、現実にあった社会的対立を糊塗して、ドイツ人であるだけで他民族に優越しているとのフィクションにより、国民の統合をはかった。しかも、この仮構は、軍備拡張と並行して実行された。拡張政策の結果、併合・占領された国々からの収奪が、ドイツ国民であるがゆえの特権維持を可能とした。国民にとって、抗戦を放棄することは、単なる軍事的敗北のみならず、特権の停止、さらには、収奪への報復を意味していた。ゆえに、敗北必至の情勢となろうと、国民は、戦争以外の選択肢を採ることなく、ナチス・ドイツの崩壊まで戦い続けたというのが、今日の一般的な解釈である。
  • 他方、スターリンソ連にとっての独ソ戦はすでに、生存の懸かった闘争から、巨大な勢力圏を確保するための戦争へと変質していた。中・東欧を制圧して、衛星国を立て、西側との緩衝地帯とすることが重要であった。そのためには、できる限りソ連軍を進撃させ、中・東欧の支配を既成事実にしなければならない。