本・ゲ・旅

歴史や政治を中心に本の要約を紹介します。たまにゲームレビューも。

ホロコースト

 

きっかけ

2008年4月、私はポーランドへ一人旅にでかけました。アウシュヴィッツ強制収容所を見学するためです。その予備知識を得るために、機内で読める本がないかと探していたところ、ちょうど刊行されたばかりの本書を見つけ、購入しました。

作者は?

感想

  • 時間の経過とともに、ユダヤ人への対処が過酷・直接的なものに移行していくことが、具体的な記述によって大変よくわかります。
  • 恐ろしいのは、自分の感覚が麻痺していくことです。虐殺など、たとえ一人でもあってはならないこと。それが現実には、数千、数万の大量虐殺が、ドイツ支配下のあちこちで毎日起こっていたわけです。本書の後半は、「〇万名のユダヤ人が殺害された」という記述ばかりです。すると、その気の遠くなるような犠牲が「またか」と自分の中でだんだん当たり前のような感覚になってきます。脳が慣れてしまうのですね。
  • それでも、文字面から虐待や虐殺の場面を想像して、胸が苦しくなり、頭がぼーっとして、読むのが辛くなってきます。
  • 私は虫1匹殺すのにも、大変な勇気と覚悟を必要とする人間です。もしこっちに向かって飛んできたらどうしよう。ティッシュで包んで捨てようとしたときにまた動いたら怖い。そんなことを考えるビビリです。それを遥かに上回る強烈な負荷のかかるであろう殺人という作業を、ガス殺であれ、銃殺であれ、毎日何千、何万人分も繰り返すことなど、私には絶対にできないだろうと思います。
  • しかし、収容所の係官とて、同じ人間。「やらなければ自分がやられる」という重圧の中で、どれほどの精神的ストレスを受けていたことか、想像を絶します。
  • 「もし、この時代に自分がドイツ国民であったらどうしただろうか」「もし、絶滅政策に加担することでのみ自分や自分の家族が守られるとしたら、果たして自分は絶滅政策を正当化せずにいられただろうか」そのような問いが私の中で大きくなっていきました。

メモ

  • 日本では、狂気に満ちた独裁者ヒトラーが、ユダヤ人の大量殺戮を命令し、アウシュビッツで実行されたといった認識が少なくない。
  • ドイツやオーストリア三月革命は、反ユダヤ主義中欧から全ヨーロッパに広めることになった。保守的な人々が体制の破壊者としてユダヤ人を見るようになってきたからだ。
  • 1916年、プロイセン陸軍省は「ユダヤ人統計調査」を行った。その結果は、プロイセン陸軍省の目論見とは違って、祖国へのユダヤ人の忠勤ぶりが明らかになるものであった。しかし、ユダヤ人は戦争に協力していないというイメージはなおひとり歩きした。
  • 「背後からのひと突き」論とは、『ドイツは戦場では負けていなかった。後方のサボタージュ、卑劣な国内革命分子(マルクス主義者やユダヤ人)のせいで敗北し瓦解した』というものである。
  • 旧秩序の瓦解、君主制の解体、革命、敗戦、インフレという大きな混乱は、ドイツ人に大きな衝撃と危機感を与えた。
  • ユダヤ人はヴァイマル憲法を通じて完全な市民的同権化を勝ち取ったが、社会では一層執拗になった反ユダヤ主義に直面させられることになった。
  • 強制収容所は1933年に開設され、主に大統領令に違反した「政治犯」を収容する施設とされていた。
  • T4作戦とは、安楽死作戦と呼ばれた、ヒトラーによる障害者殺害の委任命令のことである。拠点がティアガルテン4番地にあったことからこの名がついた。1939年末から40年にかけて、ポーランドで10,000〜15,000名にのぼる数の障害者がガス殺された。
  • マダガスカル計画とは、当時フランス領だったアフリカのマダガスカル島にヨーロッパ・ユダヤ人を移送する計画である。実際に移送するには、制海権を握っているイギリスの同意が必要であった。しかし、1940年にイギリスがドイツとの戦意を示すと、マダガスカル計画は完全に暗礁に乗り上げた。1942年にマダガスカル島がイギリスによって占領されると、計画は完全に潰えた。
  • 出国によるユダヤ人の排除が不可能になった結果、新たにユダヤ人を集住化させるゲットー(Ghetto)政策が本格化する。
  • ドイツ支配下ポーランドのゲットーは、約400箇所に作られた。ゲットーでは、ナチスによる直接の大量殺人は行われなかったが、食料供給の制限によって緩慢な大量殺人が行われたといっていい。
  • 1940年の作戦会議で「イギリスの希望はソ連アメリカである」としたヒトラーは、イギリスの期待を潰えさせ、その抗戦意識を挫くためにも、アメリカの参戦前にソ連侵攻を行い、陥落させるという決意を示した。
  • 1941年6月22日、バルバロッサ作戦ソ連侵攻作戦)が実行に移された。ドイツ軍は、360万名の兵力、21個戦車師団を含む153個師団、3600両の戦車、2700機で宣戦布告なしにソ連に侵攻した。
  • ドイツ軍は、緒戦から殲滅戦を推進していった。捕虜になったソ連軍兵士350万名の死亡率は高く、1942年春までに200万名が死亡している。また、特にユダヤ人に対しては過酷であり、1941年末までに50万〜80万名のユダヤ人を殺害した。
  • ユダヤ人の無差別大量射殺は、非常にセンセーショナルであり、直接の執行者たちに心理的抵抗を引き起こしつつあった。そこで、ヒムラーは他の殺害方法の検討を指示した。爆薬を使った実験では、時間がかかり、完璧な成果が挙げられず、大量殺害は望めないという結論が出された。
  • ユダヤ人の追放先と考えていたソ連にスペースは十分になく、ゲットーも許容の限界にきていた。現地がイニシアティヴを執った大量虐殺にも限界がきていた。そこで、更に「合理的」な「処理」を求めた帰結として、1941年12月、ついに人間の殺害のみを目的としたヘウムノ絶滅収容所が設立された。
  • ウーチのゲットーから到着したユダヤ人は、白衣の偽装医師の前で服を脱がされガス・トラックに乗せられガス殺された。ガス・トラックの遺体については、労務班員として比較的屈強のユダヤ人が取り出し作業に従事させられた。
  • 1943年3月末にヘウムノ絶滅収容所は閉鎖・解体された。親衛隊員は城館を爆破し、「森の収容所」の痕跡も消し、ユダヤ労務班員もすべて殺害した。1943年初めまでにヘウムノ絶滅収容所で殺害されたユダヤ人は、少なくとも14万5301名と見積もられている。
  • 絶滅収容所ユダヤ人殺害のみを目的としたのに対し、強制収容所は、対象となる囚人を拘禁し、再教育の名のもとに懲罰・強制労働による圧迫・搾取を行うところである。
  • ユダヤ人には、「労働不能とされれば虐待・銃殺によって「処刑」される過酷な運命が待っていた。また一部では、強制収容所内で実験的に行われたガス殺の対象者となっていた。
  • 強制収容所の強制労働は総力戦体制の労働システムに組み込まれ、労働と抹殺が密接に関係づけられていた。
  • ラインハルト作戦とは、独ソ戦の行き詰まりによりユダヤ人の東方への追放が不可能になったドイツが処遇に困ったゲットー内のユダヤ人を殺害する目的で、ベウジェツ、ソビブル、トレブリンカの絶滅収容所を建設・始動したものである。
  • ベウジェツ絶滅収容所は、固定されたガス室を持った最初の絶滅収容所である。ここでは1日平均4000〜5000名のユダヤ人が殺害された。2年間でポーランドユダヤ人を抹殺することを想定していた。
  • 司令官は、殺害がスムーズに進むようユダヤ人が収容所に到着したとき、殺害のために連れてきたことを悟らせないため、労働収容所あるいは通過収容所と思い込ませ、そのままシャワー室に偽装したガス室に入れた。加えて、スピードを重視し、到着と同時にユダヤ人を走らせ、周囲を見る余裕や思考時間を与えないようにした。
  • ソビブル絶滅収容所は、文字通りただ大量殺戮を行うためだけに作られた最初の絶滅収容所であった。1943年10月、収容所内でソ連軍捕虜とユダヤ人が中心となり武装蜂起した。その日のうちに鎮圧されたが、数十名は地雷原を越えて森に脱出し、戦後まで生き延びた人もいる。
  • トレブリンカ絶滅収容所もまたソビブル絶滅収容所と同様に、それ以前は何もない土地であり、絶滅収容所のためだけに作られていた。1942年7月から9月までにワルシャワ・ゲットー住民男性の87.4%、住民女性の92.6%がガス殺された。1943年8月にユダヤ人が武装蜂起したが、鎮圧された。
  • 3つの絶滅収容所の閉鎖・解体は、痕跡を残さないための労働力として収容していたユダヤ人によって行われ、最後は親衛隊が彼らを射殺して終わった。
  • 日本で絶滅収容所を取り上げる場合、アウシュヴィッツ絶滅収容所の場合が圧倒的に多く、その知名度は高い。だが、ラインハルト作戦で建設されたベウジェツ、ソビブル、トレブリンカという3つの絶滅収容所の犠牲者は175万名であり、アウシュヴィッツ絶滅収容所の犠牲者を上回るものである。
  • しかし、ラインハルト作戦で建設された絶滅収容所でのユダヤ人大量殺戮はあまり知られてこなかった。一つには3つの絶滅収容所の閉鎖・解体が、遅くとも1943年11月という戦争の最中であり、痕跡が消され、生存したユダヤ人が少なかったことである。また、3つの絶滅収容所に関係した親衛隊も、戦死したり、戦後自殺したりしている。このような理由から、ラインハルト作戦の解明がほとんど進まなかったのである。
  • アウシュヴィッツ強制収容所は、1940年にヒムラーの命令によって建設が始まった。当初はポーランド政治犯を収容する目的で開設された。
  • 1941年10月から、移送されてきたソ連軍捕虜1万名を使ってアウシュヴィッツ第二収容所―ビルケナウ収容所の建設がはじまった。この建設は過酷で、従事した捕虜のうち翌年春までに生存していた者はわずか2%にすぎなかった。アウシュヴィッツで、ガスを用いたユダヤ人の大量殺戮を行う絶滅収容所として機能するのは、このビルケナウ収容所である。最終的に、この収容所が完成したのは1943年春であった。
  • 1943年に入ると、ビルケナウ収容所に4つのクレマトリウムが建設される。クレマトリウムとは、ガス室と焼却炉が複合した施設で、痕跡を残さずに、より合理的に大量殺戮を行うことができた。クレマトリウムが完成したのち、強制移送されてきたユダヤ人は、降荷場で「選別」され、そのままクレマトリウムで殺戮されていった。
  • 絶滅収容所の末端で働かされたのは、収容されたユダヤ人のなかから選ばれたユダヤ人特別労務班員であった。彼らは、ユダヤ人のガス殺が円滑に行われるよう巧みに誘導し、ガス殺後の遺体の片づけ処理を迅速に行うことを強制されていた。彼らもまた不必要になれば抹殺された。戦後、生き延びたとしても、ナチ親衛隊側の協力者としての烙印を捺され、隠れるように暮らすことになる。自殺・発狂・廃人になった者も多かった。
  • ソ連軍の接近が間近になると、絶滅収容所をはじめ強制収容所は、まだ余力のある収容者をドイツ本国の強制収容所をめざして強制的に移動させていた。これは「死の行進」と呼ばれる。だが、そのまま目的の収容所に辿り着けた者は少なかった。収容者は飢餓状態だったため、天候の変化や寒気から亡くなる者もあり、途中で衰弱し歩行困難になった者は容赦なく射殺されたからだ。
  • ニュルンベルク裁判は、ナチ・ドイツの最重要人物と認定した22名に対して、a項/平和に対する罪、b項/通例の戦争犯罪、c項/人道に対する罪を問うものだった。この裁判の特徴を簡単に述べれば、いままで国際法に存在しなかったa・c項を設けたことである。
  • またニュルンベルク裁判では、親衛隊、ナチ党指導者団、ゲスタ―ポ(秘密国家警察)・保安部(国家保安本部の2つの中心組織をセットにした)の3つを「犯罪組織」と断定した。
  • アウシュヴィッツ絶滅収容所の司令官だったルードルフ・ヘースは、戦後ドイツ北部に潜伏していたが、1946年に英軍憲兵隊に逮捕された。ポーランド最高人民法廷はヘースに死刑を言い渡し、ヘースはアウシュヴィッツでかつて自らの館だった跡地で絞首刑に処せられた。
  • 国家保安本部は、約300名いたスタッフの3分の2が36歳以下であり、他のエリートと比べ著しく若かった。
  • 1992年まで西ドイツの裁判所は、ナチ犯罪に関して10万名以上を起訴し、1万3000件以上が裁判にかけられ、6489件の有罪判決を下した。そのうち最高刑である終身刑は163件である。また「ナチ犯罪追及センター」は、4853件の立件を行っている。ただし西ドイツの裁判では、罪刑法定主義の点から「人道に対する罪」は適用されなかった。
  • ヒトラー個人のユダヤ人への憎悪と、ナチ体制の反ユダヤ主義ドイツ国民全体のユダヤ人に対する態度とのあいだに、どのような結びつきがあったか。どのような差があったか。
  • 1933年にヒトラーが政権を掌握して以降、ドイツにとって反ユダヤ主義ユダヤ人排除が、どのような役割を演じたのか。
  • 反ユダヤ主義政策が、最終的にヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅政策にまでエスカレートしたのはなぜか。
  • ヒトラーがどの程度事態を正確に把握し、どの程度ユダヤ人政策を主導したかについては、見解が分かれている。
  • 包括的な大量虐殺が、ナチスユダヤ人政策の最終目的であると、いつ決定したのかについても、さまざまな見解・解釈がある。
  • ヒトラーユダヤ人政策については口頭での直接命令を好み、同時に特別な方針を命ずるより、部下が主体的に動いてくれるよう仕向けることをよしとした。
  • 意図派あるいはプログラム学派は、あくまでヒトラー個人のイデオロギーを重視し、戦争はただユダヤ人絶滅を実行する口実を与えたに過ぎなかったとする。
  • 機能派あるいは構造派は、ナチスユダヤ人政策の紆余曲折と先鋭化を強調し、当初から殲滅戦と設定したソ連侵攻後初めてユダヤ人大量殺戮を選択したと見る考えである。
  • 当時ミュンヒェン現代史研究所所長を務めていたブローシャートは、ユダヤ人の絶滅政策が、情況に制約されるなか混乱や競合を特徴とするナチスのさまざまな行政機関によって定まったとした。特に現地の意思決定者たちのイニシアティヴが、1942年のあいだに絶滅政策を発動させ、ヨーロッパ全体に及ぶ命令に拡大させていったとした。
  • ホロコーストの政策決定の研究を通して、ナチ体制に特有の「多頭支配」や権限のカオスについて認識されるようになってきた。
  • 戦後の奇跡の復興、発展を遂げた西ドイツは、ナチ体制との断絶を強調してきたが、官僚を中心に連続性を保ってきたのが実情であった。
  • ナチ体制下、一般市民はホロコーストについて、どの程度、認識していたのか。
  • 近年、ナチ体制下における世論の研究によって、ナチ体制は一枚岩の体制でなく、ドイツ社会もまた、同質的・一元的社会ではなかったことが明らかになってきている。
  • 戦前、世論の大部分は、ニュルンベルク法などの人種立法を、社会的・文化的・生物学的な隔離政策として必要なものとみなしていた。その背景には、こうした法によって社会の秩序を守ることができれば、暴力的解決を要しないという意味もあった。
  • 従来、ドイツ国内の多くの人々は、アウシュヴィッツに象徴されるユダヤ人の絶滅政策について知らなかったという見方が少なくなかった。だが、近年の世論報告の分析によって、東部地域の情報は一般住民のあいだにも伝わっていたと考えられている。そしてほとんどのドイツ人住民が絶滅制作に対しては受動的な態度しかとらず、その多くが沈黙したのであった。
  • こうした態度については、現在2つの解釈が提起されている。一つは、知ろうとしない、知りたくないという意味での無関心である。もう一つは、政策に対する同意、あるいはナチ体制との暗黙の合意である。
  • ホロコーストというユダヤ人大量殺戮について、狂気に満ちた独裁者ヒトラーアウシュヴィッツで行うよう命令し、実行されたといった直線的なものでは決してない。