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古代アレクサンドリア図書館

 

 

きっかけ

  • アレクサンドリア図書館といえば、古代地中海世界の知の中心でありながら、その記録や遺構がほとんどすべて失われているため、当時の様子が謎に包まれている…。私の理解はそんな程度ですが、それでも私の興味を十分にそそる存在です。
  • Amazonの(ほしいものリスト)に数年間入れっぱなしで、ずっとタイミングをうかがっていましたが、2022年1月、ようやく購入に至りました。(53円+配送料350円)

感想

  • 私が訳書を読むにあたっての最重要点は、翻訳が直訳ではなくこなれていて読みやすいかどうかですが、この点で本書は極めて高品質。訳書であることを忘れさせてくれるほど、自然で明快な和文です。
  • 訳者によるカッコ書きの補足がとても丁寧で貴重。例えば、[象形文字ヒエログリフ)は絵文字から発展した単語文字の総称であるが、エジプトの絵文字をさす場合が多い。神官文字(ヒエラティック)は聖職者が使用した象形文字で、その簡略体が一般に使用された民衆文字(デモティック)である]といった具合です。もっとも、高校世界史レベルを超えた古代ギリシア、ローマ、エジプト、メソポタミア、インドの歴史が語られるため、この解説があってもわからないことばかりですが。
  • 十字軍の目的の一つが、アラブ世界の書物の獲得にあったとは目からウロコです。一方で、アラブ世界の学者たちも目立った業績を挙げられず、やがて科学の最先端がアラブから西欧へ移ってしまうのもむべなるかな。
  • 写真やイラスト、図表が少ない点は残念です。
  • 「科学における基本的な問題の解決に挑戦する代わりに、彼らはその努力を原典批評にあてた」との指摘は、社会人として耳が痛い。問題の本質とその根本的解決を考える努力を続けます。

メモ

  • 古代エジプトのように宗教志向の強い社会にあっては、神殿が学問の中心であるという伝統が強く残っている。
  • 重要な神殿はすべてその境内に図書館を備えているというのはあたりまえのことだった。
  • アレクサンドリア図書館は古代世界を通じて最大であったばかりでなく、学術研究に直結し、地中海世界のいたる所から学者たちが訪れた。
  • この異常なばかりの関心の理由は、図書館やムーゼイオンが当時の文明をもっともよく表していること、また7世紀あまりにわたって国際的に学問と知識の旗印を掲げ続けた古代アレクサンドリア大学が、その基礎の上に設立されたことによる。
  • 学芸の女神ミューズたちを祀る神殿を設けるのは、アテナイの哲学教育機関の特徴であった。哲学的、芸術的な霊感はミューズによるというのが当時の一般的な考えである。
  • プトレマイオス王家の庇護とその広く知られた寛大さのおかげでムーゼイオンは速やかに国際的な評価を確立した。
  • 疑いもなくほかの誰にもまして輝かしい名前は、もともとアレクサンドリア生まれであると考えられる数学の父、ユークリッドであろう。
  • ローマ時代のアレクサンドリアでは、ムーゼイオンの性格に変化が見られた。工程の保護は継続していたが、プトレマイオス王朝の国王たちの個人的関心に基づく保護とはまったく様相を異にしていた。科学と医学の分野では、目覚ましい成果が見られた。しかし文学の分野では、際立った停滞がみられる。反面、哲学研究は隆盛に向かい、やがてアレクサンドリアフィロンやプロティヌスの著作によってこの分野で世界をリードするようになる。ムーゼイオンと図書館の運命を最終的に決めたのも、哲学と宗教の2つの面でのこの変化であった。
  • アレクサンドリアの主たるライバルは当時なおアテナイであり、そこで学ぶ学生たちはかつてプラトンアリストテレスが教鞭を執った場所で学ぶことに誇りを持っていた。
  • 前3世紀のはじめ以来、程度の差は様々であれ、この町にはギリシア語を話す学者たちと文人たちが絶えずやって来た。この町に住む外国人学者に加えてアレクサンドリアの町はそのごく初期から優れた資質の優秀な学者たちを輩出してきた。
  • ある一つの場所で活発な国際的学術交流が実現していたという事実が、様々な背景の科学的経験の自然の交流を促したのであり、そしておそらくそのことが古代アレクサンドリアの学問的成果の独創性を説明しているのである。
  • 図書館の建物はたまたま海の傍にあり、そのために前48年の火災で消失してしまった。これに対してムーゼイオンのほうは焼失を免れ、前30年、ローマのエジプト併合後も皇帝たちの庇護を受け続けることになった。
  • 3世紀になると、異教徒迫害と軍事的侵略の猛威が交互にこの町を襲った。そうした攻撃はしばしばブルケイオンと呼ばれる王宮地域に集中したが、ムーゼイオンもこの区画内に位置していた。
  • 4世紀を通じて、ブルケイオンの大部分は荒廃するがままに放置された。
  • 391年の、町じゅうのすべての異教神殿を破壊せよというテオドシウス帝の勅令以後、ムーゼイオンは長くは存続しなかったであろうと思われる。
  • 391年のセラペウムの破壊が神殿と同時にその図書館の最期でもあったことは疑問の余地がない。
  • 12世紀には、西欧世界に書物に対する需要の大幅な増加があった。書物の獲得こそ十字軍の目的の一つであった。
  • アラブの知的土壌に深く根を下ろした、ギリシア=ローマ文明に対する関心の全盛期はイスラム支配の最初の4世紀間であり、それは精力的に翻訳作業が行われた時期に一致している。
  • イスラムの文化的風土の中で特筆すべき現象の一つは、アッバース朝初期カリフたちが、図書館設立、とくにバグダッドの「知の家」の設立に傾けた熱意である。
  • 12世紀以降になると、アラブ世界の古典的遺産に対する関心は様相を異にするようになる。もはや直接の翻訳や注釈は行われなくなり、その代わりに先人の業績の編纂や概観が著されるようになる。これに続く15世紀から19世紀までの時代も、古典的遺産の研究と保存への関心は徐々に薄れ、20世紀初頭までは新たな出発は訪れなかった。
  • アラブ世界の科学的営為は3つの発展段階を経過した。すなわち、(a)翻訳の段階、(b)注釈と批判の段階、(c)総合的解説書や概説書の編纂の段階である。
  • また、アラブ世界の科学的発展にとってヘレニズム期、ローマ帝政期のアレクサンドリアの学術研究の実績がいかに根本的な重要性を持ったかも明らかであろう。
  • しかしアレクサンドリアの影響は単に偉大な先人たちの作品の翻訳や注釈だけにとどまるものではない。はるかに大きな影響を与えたのが、アレクサンドリア的な研究方法のアラブ人による採用という事実であり、このことこそ、まさに宿命的であった。
  • アレクサンドリアのムーゼイオンの学者たちは2つの方向で学問を発展させた。すなわち過去の知的遺産の保存と研究、および基礎的学術研究である。
  • 過去のギリシアの遺産の研究にあたってアレクサンドリアの研究者たちが採用した一つの方法は、原点にかかわる問題点を研究し、その解決を図る「問題提起」という習慣である。科学における基本的な問題の解決に挑戦する代わりに、彼らはその努力を原典批評にあてたのである。この方法の採用は、中世のアラブの学者たちには、一般に真の創造的批判の態度が欠けていたということを物語っている。そしてまた、彼らは絶えず厳しい批判にさらされてチェックされ、基礎的研究の要請に対応しなくてはならない、厳密に科学的な方法を適用することがいかに重要であるかを完全には理解していなかったということをも示しているのである。このことこそ、彼らがギリシアの学問の呪縛に打ちのめされ、完全にはギリシアの学問的業績の限界から解放されなかった理由であろう。