本・ゲ・旅

歴史や政治を中心に本の要約を紹介します。たまにゲームレビューも。

講談社現代新書 オスマン帝国

 

きっかけ

以前から読みたい本の一つでした。

GWの暇つぶしになる本がないかなとブックオフを覗いたところ、110円で売られていたのを発掘。鉛筆で少し線が引いてありましたが、消しゴムで消せばいいやと割り切って購入しました。

感想

  • 歴史に関する本を読むにあたって私は、「そうだったのか!」と膝を打つような新鮮な感動を期待しています。
  • 本書はおよそ20年前、1992年の出版と古いですが、これまでに読んだイスラーム関係の本でしばしば参考書籍として挙がっていました。
  • また、本書の副題にある「柔らかい専制」という謎めいた表現にも惹かれました。
  • このことから、本書からも多くを学べるものと期待し、購入したのでした。
  • しかしながら、期待したほどの感動はありませんでした。その理由は、これまでに読んだイスラーム関係の本で既に知っていたことを再確認するレベルにとどまったためです。
  • とはいえ、オスマン帝国についてほとんど知らない人が、大まかに歴史を理解するために読む入門書としては適切と思います。

メモ

  • 1453年西洋史の世界で、しばしば「中世」と「近代」の分岐点とされる。
  • 当時の西欧は依然として、ユーラシア大陸の極西の辺境に位置する後進地域に過ぎなかった。
  • ビザンツ帝国は、なお、当時の西欧の畏敬の対象だった。
  • ビザンツ帝国は、7世紀以上にわたって、東方からのイスラム教徒の侵入に対する防波堤としての役割を、西欧キリスト教世界に対して果たしてきていた。
  • オスマン文化の発展と成熟を支えた要因の一つは、東西交易の繁栄であった。
  • 強靭な支配の組織が、対内的には、ゆるやかな統合と共存のシステムにしっかりとした外枠を与え、対外的には、東西からの外敵にそなえ、さらに征服をすすめていくように機能していた。
  • 奴隷軍人制度アッバース朝に始まる。ムラト1世の頃には、イスラム世界に広く普及していた。
  • ただ、奴隷といっても、古代ギリシア・ローマのそれとは大きく異る。イスラム法上、奴隷は、売買の対象となる財産の一部ではあるが、完全なモノとしてではなく、部分的に人権をもつ者として扱われた。生産奴隷ではなく、家内奴隷だった点も、古代ギリシア・ローマの奴隷や、かつての米国南部の黒人奴隷と異なっている。主人と奴隷の関係は、育ての親と養い子という関係に近い場合も多く、相互の心理的なきずなも強かった。
  • バヤズィットは、後継者に選ばれるとただちに、戦場で敵と戦っている兄弟を処刑した。これ以降、将来のライヴァルの出現を防ぐための兄弟殺しが、オスマン朝で慣行化する。これは、オスマン国家が、戦士の仲間的集団でも、君主の一族が協力して運営する国家でもなく、君主個人の専制支配の下にある国家と化しつつあったことを示している。
  • バヤズィット1世は、「電光」というあだ名を得たほど、迅速に行動する軍事の天才だった。
  • バヤズィットの帝国は、ティムールの一撃で欠点を暴露した。最大の弱点は、その領土の諸地域を、帝国の不可分の一体としてまとめ上げるシステムが、まだできあがっていなかったことである。
  • 1453年、メフメット2世はコンスタンティノープルを包囲した。かつては数十万を誇ったこの町の人口も、激減していた。このような状況下では、防衛のための兵力ははなはだ限られていた。ビザンツ側は最大限でも1万前後の兵力で、10万を超えたであろうオスマン軍に対抗せざるを得なかった。
  • イスタンブルという名前は、ギリシア語で「町へ」を意味する「イス・ティン・ポリン」という表現に由来している。
  • コンスタンティノープルに入ったオスマン帝国は、2つの課題を抱えこんだ。一つは、それをいかにしてムスリムの住みやすい街に改造するかということ、もう一つは、激減していた人口をいかにして回復させるかということだった。
  • コンスタンティノープルは、移住により多様性にみちた宗教と民族の共存する街に変わった。
  • 元来ミレットという言葉は、アラビア語で「宗教」を意味する「ミッラ」を語源とする。
  • ムスリムは原初以来、確たる共存の知恵をはぐくんできていた。それは彼らが、西欧に比べるとはるかに複雑な宗教・民族構成を持つ地域で生きねばならなかったからだろう。
  • イスラム的世界秩序観においては、人間の住むこの世界は、2つに分かれる。イスラム法の秩序があまねく成立している「イスラムの家」が一つ。いまだムスリム支配下に入らず、したがってイスラム法の秩序が成立していない「戦争の家」がもう一つである。
  • ジハードとは、「戦争の家」を「イスラムの家」へととりこんでいくための、不断の積極的な働きかけにほかならない。
  • ジハードには、武力による戦争だけではなく、言葉による折伏のような、平和的手段による働きかけも含まれている。
  • イスラムでは、強制による改宗は禁じられている。「イスラムの家」は本来、イスラム的秩序の下で、ムスリムと非ムスリム共存する世界として想定されている。
  • 啓典の民」(キリスト教徒とユダヤ教徒)には、「コーランか、貢納か、剣か」の3つの選択の余地が与えられる。彼らが貢納を選ぶということは、ムスリム共同体と契約を結んで、貢納と義務と、一定の行動制限を課されることを意味する。それを承諾する場合には、彼らに「保護(ズィンマ)」が与えられる。そして「被保護民(ズィンミー)」として、固有の信仰と法と生活慣習を保ちながら、自治的生活を営むことが許される。
  • アラブの大征服が始まるとともに、マニ教徒が「啓典の民」に加わった。ゾロアスター教も「啓典の民」に準じて扱われるようになった。その後、インドにイスラム勢力が入ると、ムスリムには偶像崇拝とも見えうるヒンドゥー教や仏教すら、それに準ずるようになった。つまり、ほとんどの異教徒がズィンミーになりえたのである。
  • オスマン帝国で宗教・宗派間の共存が一応は実現されていた原因は、主として2つの要因に求めうる。その一つは、イスラム的共存のシステムが、オスマン帝国でもほとんどそのままとり入れられ、実施されていたことだった。そしていま一つの要因が、その共存のシステムを乱すような紛争が生じた時、それを迅速に制圧しうる強靭な支配の組織が維持されていたことである。
  • オスマン軍のウィーン包囲は、コンスタンティノープル陥落以来の衝撃を、西欧キリスト教世界に与えた。大規模で強力な常備軍をまだ十分にもたなかったハプスブルク皇帝は、ウィーン救援のための兵員と戦費の調達のための方策を、帝国議会に諮らねばならなかった。そこで承認を得るためには、これまで激しく対立してきたプロテスタント系諸侯らとも妥協が必要となった。
  • レイマンの時代に、帝国の支配の組織が真に確立し、制度が整った。
  • 征服後1世紀近くを経たイスタンブルの街は、数十万の人口を擁する大都市に成長した。スレイマンの時代は、彼の異名「壮麗者」にふさわしい文化の輝きを放っているのである。
  • 西欧の人びとにとってオスマン帝国は、「組織の帝国」であった。オスマン帝国の脅威は、何よりも、その高い技術水準にたつ組織の脅威だったのである。
  • デウシルメ制度こそ、同時代の西欧人たちを驚嘆させたほどの高度の社会的流動性の源泉であった。デウシルメ制度は、常備軍団兵士を継続的に人員補充していくために成立した制度だった。
  • デウシルメとは、帝国領内のキリスト教徒臣民の子弟の中から、主として10歳台の少年たちのうち適切な者を強制的に徴収し、スルタンの奴隷軍人へと組み入れる制度であった。これはイスラム世界のほかの諸王朝ではほとんど例を見ない特異な制度であった。
  • オスマン帝国の社会には、多くの事実上の世襲が存在していた。しかし、真に世襲的な貴族は存在できない構造になっていた。
  • 1571年のレパントの海戦で、常勝不敗に見えたオスマン軍が初めて西欧人によって打ち破られたことは、「トルコの脅威」の悪夢から、人びとを解放するきっかけとなった。
  • 16世紀末以降のオスマン帝国は、たしかに大きな転換期に入っていた。スルタンは支配組織の実質的な頂点から、権威のシンボルと化していった。大宰相も個人の力量に頼る政治家から、組織の中の官人へと変化していった。また、支配組織の拡大、特にイェニチェリ軍団の拡大ははなはだしかった。これらが財政赤字を恒常化させていった。
  • しかし、イェニチェリの拡大は、技術革新と組織環境変化への適応であったといえる。また、ティマール制から徴税請負制への移行も、組織構造変化に適応するために新財源を探求する、積極的取り組みだともいえる。
  • オスマン帝国はかつての「戦士たちの国家」から、「官僚たちの国家」へと変身をとげていった。
  • 16世紀のイスラム世界において、オスマン帝国の支配組織と軍事技術は、卓絶したレベルにあった。技術的優位に立つオスマン帝国は、イスラム世界に対しては18世紀にも、16世紀以来の領土を確保し続けたのである。
  • かつての超大国オスマン帝国を脅かしはじめたのは、近代西欧の台頭であった。その威力は何より、近代西欧における軍事の組織と技術の革新に求められる。
  • 1529年の第1次ウィーン包囲の際のオスマン軍の粛々たる撤退と、1683年の第2次ウィーン包囲の際のオスマン軍の潰走は、まったく別のものであった。その1世紀半の間に、西欧では社会体制の変化と軍事組織・技術の革新が起こって、両者の力関係は逆転してしまったのである。
  • 「柔らかい専制」は、”ゆるやかな統合と共存のシステム”と、それに外側から「鉄のたが」をはめる”強靭な支配の組織”から成り立っていた。近代西欧はまず、軍事的技術格差という形で、オスマン帝国の”強靭な支配の組織”に衝撃を与えたのである。
  • そして近代西欧は次に、新思想=ナショナリズムという形で、”ゆるやかな統合と共存のシステム”にも衝撃を与えていく。
  • オスマン領バルカンの非ムスリム民族の「民族」への目覚めは、宗教に基軸を置くズィンミー制度という、オスマン帝国のゆるやかな統合のシステムを、根本から切り崩し始めた。
  • また、近代西欧に誕生した自由・平等・政治参加という思想は、ムスリム優位の下の不平等な共存を、耐え難いものと感じさせるようになった。
  • オスマン帝国への近代西欧的ナショナリズムの浸透は、「柔らかい専制」というオスマン帝国のよって立つシステムを、根底からゆるがすほどの意味を持っていたのである。