本・ゲ・旅

歴史や政治を中心に本の要約を紹介します。たまにゲームレビューも。

民族の時代

 

きっかけ

ここ1年半ほどの間に、私はイスラーム世界に関する歴史や政治の本を何冊か読みました。そこで認識したのは、民族やナショナリズムが、近現代史を学ぶ上で必要不可欠な最重要概念であるということです。同時に、ナショナリズムは当事者に平和や幸福をもたらしたのか、むしろ紛争や悲劇といった負の歴史をより多く産み出しているのではないか、そんな疑問も抱きつつあります。私はそれらを更に深く考えるきっかけになればと思い、本書を購入しました。

どんな本?

ソ連の解体、東欧の民主化、中国の改革・開放政策から生まれた「ナショナリズムの高波」。国家・宗教・難民といった新たな世界の緊張を生み出す民族問題とは何かを検証する。

感想

  • 純粋な歴史書や歴史の教科書とは異なり、「民族」をテーマに歴史を論じる本です。『歴史読み物』という括りに入るでしょうか。高坂正堯先生の『○○で考える』シリーズ(新潮選書)に近いと私は感じました。
  • 歴史上の人物や学者、作家などの発言・記述を豊富に引用する博覧強記ぶりは、本書でも遺憾なく発揮されています。そしてそれらは読者の理解を促す補助輪として的確に機能しています。

メモ

  • 民族紛争が多発する地域は、かつて皇帝君主独裁を戴いた「多民族帝国」の枠と構造をそのまま引き継いだ国々に多い。
  • 孫文の「三民主義」のなかの民族主義は、「種姓より発出しきたる自然の事柄、万人共有の人情」と呼んでいた。
  • 20世紀末の民族問題は、中世から近代初期にかけてつくられて、多民族・多言語はいうに及ばず、しばしば多民族から成り、高名な専制君主に支配されてきた大帝国の巨大な崩壊過程の最終局面と考えることもできる。
  • 孫文1920年に「中国のあらゆる民族を一つの中華民族に融合する」と述べた。
  • たやすく帰属が確認できる集団に属したいというのは、人間の生存本能にかかわる感情である。
  • 人びとは、外国、ないしは遠い階級なり環境からやってきた、自分たちを見下す有力者の支配下にあるよりも、自らと同じ信仰や民族に属する人びとによって秩序を与えられる方を選択しがちなのである。たとえ外国人の支配がいかに善意のものではあっても、虐待をともなうかもしれない「われわれ」の一員による統治に安心の境地を求めるのである。
  • 民族に関するスターリンの定義: 「民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態、共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された人びとの堅固な共同体である」
  • ある人びとが「民族」としてのまとまりをもつことは、主権国家の「国民」になれるか否かの最低条件である。
  •  日本では「国民」という意識と実体は、1880年代の後半以降に定着しはじめたといってよいだろう。
  • めでたく「国民」として独立が認められた集団がいつもまとまった「民族」だったわけでもない。
  • 第一次大戦後のポーランドの指導者ピウスーツキの指摘「国家が国民をつくるのであって、国民が国家をつくるのではない」
  • 1960年の「アフリカの年」で誕生した約50の国々には900あまりの民族がいた。
  • 原初主義(primordialism)の立場によると、人間とは、血縁や地縁、同じ先祖、独特な文化や慣習、固有の言語を保持したいと考えて、それらに原初的愛着を感じる存在だという。原初主義的アプローチに賛成する論者は、領土、言語、共通意識といった客観的な特徴の共通性を重視する。
  • 道具主義(instrumentalism)では、民族的な独自性と差異のあり方を結晶させるカギをにぎるシンボルとして、意識と言語の役割を強調する。
  • 「民族」を強調する国史文献、民族百科事典、民族文化研究なるものは、「実際にそうだった」ような歴史の事実とは一致しない場合が多い。
  • ナショナリズムには、多かれ少なかれ過去は改変できるという信仰がつきまとう。
  • 民族の名称は、しばしばその民族と接触した古代の旅行化や地理の記述家などによる「外からの規定」になることが多い。差別されてきた先住民の場合には、とくにこの傾向が強い。「エスキモー」「インディアン」「インディオ」「ラップ」などは当人たちが必ずしも歓迎しない名前なのである。
  • 人類は社会を営み始めていらい、人びとが集団を内と外に分類して、外の集団に口汚いののしりの言葉を浴びせかけてきた。この現象は、洋の東西を問わず人間に共通する性癖のようなものだ。
  • 幕末・明治期に民衆のあいだでも西洋人が「異人」と呼ばれるようになったが、これは「この世のものとは思えない姿の人」「不思議な術をおこなう人」に接して民衆心性にくいこんだ恐怖や憎悪、危機意識の現れでもあった。
  • これまで、民族とは、同じ名称や文化的要素を共有し、共通の起源にまつわる神話や共通の歴史的記憶を保有する人びとがつくる集団が、特定の領域で自らを結合して連帯感をもつ存在だと理解されることが多かった。しかし、こうした理解には問題が多い。
  • 多くの民族は特定の囲われた土地空間のなかに集住することが多い。しかし、この因果関係はむしろ逆なのである。地域の共通性は民族であることの条件ではなく、民族となった人びとがそこに集住した結果に過ぎない。
  • ほとんどの民族は共通語ともいえる言語をもっている。しかし、その重要性にもかかわらず、言語の共通性があれば同じ民族になるともいえない。特定の言葉を日常会話や官庁文書に用いる人びとの分布は民族の広がりの境界とは合致しないからである。
  • もし、言語の共通性を強調しすぎると、同一の言語を話すすべての人びとを同じ国家に結合させようという衝動を阻止できない。これは、ヒトラーズデーテン地方ダンツィヒ回廊のドイツ人を「母国」に統合する根拠にもなった。
  • 結局のところ、「民族とは何か」を万人が納得するように定義することはむずかしい。
  • 重要なのは、民族と呼ばれる実体、それにまつわる現象、民族問題やナショナリズムが歴史上に存在してきたことであろう。それらが、いまでも世界を苦しめていることは間違いない。
  • いかなる「客観的」な基準を設けても民族の実際の広がりとは一致しない。いちばん重要なのは、「われわれは他者とは違う」という「われわれ意識」や「われわれへの帰属意識」を生みだす連帯感ではないだろうか。
  • 双方を、文明と未開、近代的と伝統的といった恣意的な判断基準で区分するのは、19世紀以来の社会ダーウィニズムの西欧中心思想である。
  • 「区別した用語法を採用する者の優越感に基づく『差別意識』しかないとしたならば、両者をあえて区別する必要はない」(大塚和夫、1949年10月11日 - 2009年4月29日)。日本の人類学者。元東京外国語大学教授。専門は、社会人類学、中東民族誌学。)
  • 民族意識とは、同一民族の人間が、自分以外の人びとを一個の人間共同体に属する自分の仲間であると感じる心理」(費孝通(ひこうつう)、1910年11月2日 - 2005年4月24日)。中国の社会学者、人類学者、民族学者。)
  • ナショナリズムが発展するには、人びとの民族意識を高めるような要因ー言語、人種的な起源、共通の民族史などが虚実とりまぜてつくられる必要がある。
  • 社会が共産主義や植民地支配から解放された後に、いっそう苛烈な民族抑圧が出現するとは何たる逆説だろうか。
  • ナショナリズムの両義性とは、国民をつくりあげる民族というものが社会科学者の目には近代的現象に見えるのに、ナショナリストの目には古代からずっと続いている実体として現れているということである。
  • 民族とは、ナショナリズムの担い手がつくりだしたものである。ナショナリズムの担い手が発信するメッセージを肯定的に受け入れる人びとの範囲が民族の外延になるともいえよう。
  • 「18世紀の戦争は結局君主が、その所有物である傭兵軍隊を使用して自己の領土権利の争奪を行った戦争である」(石原莞爾
  • ナポレオン戦争によってナショナリズム国民国家がヨーロッパにもたらされたというE・H・カーの指摘は正しい。ナショナリズムはまず愛国心として現れたのである。
  • ナショナリズムという用語が一般に使われるようになったのは19世紀も末になってからである。
  • 民族自決の原理は第一次大戦戦勝国に好都合に実施され、敗戦国には道義に反した形となり大きな反発を呼んだ。しかも、どちらの側にとっても、民族自決の実施は決して満足いくものではなかった。なぜなら、単純に民族分布で絵模様を描いても、同質なものから成る単位をつくることはできなかったからである。
  • 運命のいたずらともいうべき国境線は、無気力かつ無責任に決められる場合が少なくなかった。
  • スターリンヒトラーという二人の独裁者による人間の強制移動はユーラシアの民族分布を変えてしまった。この結果、とくに東欧ではかつて水玉状に入り組んでいた民族模様や都市景観がはるかに「整然」とするようになった。
  • カフカースから中央アジアのステップなどに追放されたチェチェン人たちは、自らの監修や信仰を忘れずにかえって民族としての団結を強めさえしたのである。
  • イギリス、フランス、スペインなどは、幸運にも民族の形成と国民のあり方が居住地域とほぼ重なり、中世から近世が生まれてやがて近代国家へ成長を遂げることができた国々である。「ネーション」や「ナシオン」という用語に民族、国民、国家という意味が重なるのも偶然ではない地域である。
  • ドイツやイタリアは、神聖ローマ帝国が没落すると領邦国家の分裂状態が固定化したり、教皇領の存在によって国家の統一が阻害された地域でもある。それでも、ドイツ語やイタリア語という共通言語をもとにして人びとの交流が維持され、ナショナリズムのもとで国民国家としての統一が可能になったのである。
  • もっと東のロシアやウクライナにいくと、そこは自前の国家をつくろうとしたときに、すぐさま少数民族をたくさん抱え込むといったねじれをおこした地域である。しかも、本来果たされるはずだったロシアやウクライナ国民国家としての成長は、ソビエト連邦という「帝国」の成立によって阻害されたのであった。
  • 帝国のシステムでは、最初から権力の中核を締めた民族が支配権をもっており、他の民族に属する者は昇進や教育などで不利益を被ることも多かった。しかし、法・宗教・生活監修などの多様性を尊重する制度に恵まれるなら、帝国のシステムが円滑に働くことも多かった。
  • 他方、国民国家民族自決や統治形態の民主的装いにもかかわらず、自国内に住む民族の多様性に寛容でないことも珍しくない。むしろ多民族国家では寛大に扱われた宗教の違いも、ここでは見過ごされないという逆説さえ生まれる。
  • 帝国崩壊後に登場した国民国家は、かつてのハプスブルク朝やオスマン朝から最近のソ連ユーゴスラヴィアの解体にいたるまで共通する特徴をもっていた。それは、自らがとってかわった帝国が抱えていた弱さを払拭できなかっただけでなく、それに加えて自らにも弱さがあるような小さな政治システムだということである。
  • 「帝国にとっては民族共存は当たり前の事実なのである、逆に国民国家にはなんとか民族集団を整理、同化、あるいは抑制する必要がある。」(ヌール・ヤルマン、1931年トルコ生まれ。文化人類学者。ハーバード大学教授。ケンブリッジ大学卒業。同大学で文化人類学の博士号を取得。)
  • アメリカは「多数の民族から成る国」(a nation of nations)であった。(ウォルター・ホイットマン (Walter Whitman, 1819年5月31日 – 1892年3月26日) 、アメリカ合衆国の詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト。)
  • 米国に来る以前に自分のいた出身国や民族性を意識したままの移民が多い。
  • 初めての国勢調査がおこなわれた1790年には、イングランド系人口は全体の約50%にすぎず、アフリカ系(黒人)を除いた統計でも61%を占めたにすぎない。
  • アメリカ人は、「アメリカ人でなかった者がアメリカ人になる」という経験の繰り返しで数世代にわたって形成された国民であるともいえよう。
  • 「多から成る一」としてのアメリカ合衆国の枠組みを維持して、アメリカの体質を定めながらアメリカ人たらしめるのは、アメリ憲法である。憲法なくしてアメリカなしである。
  • アメリカ人であるかないかの尺度は、基本的価値の共有いかんにかかっている。
  • 世界中の移民から成立した多民族国家アメリカは、自らの価値観を他国も当然共有できるはずであり、すべきであると信じている気配がある。
  • アメリカでは、南北戦争を機に最高裁判決がだされて、いかなる州も其の連合も一方的に連保を去る権利をもたないことになった。
  • アメリカにとって幸いだったのは、ソ連やユーゴと違って、州が民族別領土になっていなかったことである。また、オスマン帝国と違って宗教的な共同体に分けられていなかったことも幸いしたかもしれない。
  • 「接近」とは各民族やエスニック集団が同じ地域で仲よく住む結果、他の民族と自分は違うという独自性の感覚や隔離意識を失う状態をいう。
  • 「融合」は、各民族が地理的に混住しながら混合結婚を通して「新しい人間」「共通国民」をつくる段階である。
  • イスラム世界に共通していたのは、民族という感覚の希薄さであった。19世紀から20世紀にかけてさえ、そこでは宗教的アイデンティティが民族的アイデンティティを上回っていた。
  • ミッレトとは、キリスト教徒とユダヤ教徒にたいする保護と支配の単位となった宗教共同体である。ミッレトは民族を基準にして仕切られた個別的な集団や共同体ではなかった。
  • イスラムギリシア正教アルメニア正教、ユダヤ教は、帝国の最初から設けられた「4つのミッレト」を構成した。
  • ユダヤ教徒は「啓典の民」のなかでも一番古い由緒を誇っていたので、オスマン帝国ではその才能を珍重されるのが普通であった。
  • 宗教信仰に寛容だった帝国では、結果として民族的偏見も乏しかった。
  • ボスニア・ヘルツェゴヴィナムスリムの大部分は、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人の王国」の成立後も、民族意識をもちあわせなかった。かれらは、すでに民族形成を終えたヨーロッパでは例外的に、自らの民族的アイデンティティをまだ確立していなかった。
  • 第二次大戦後にティトーを困惑させたのは、「セルボ=クロアチア語を話すムスリム」たちの大半が所属すべき民族がないと考えていた現実である。ボスニアムスリムたちには、セルビア人かクロアチア人の民族籍を選ぶことが勧められたが、実際には「ムスリムとしてしか申し立てせず」が全ムスリム住民の約89%もいた。
  • 1961年の国勢調査になると、初めて「民族的な所属としてのムスリム」として民族籍を登録する権利が認められた。こうして「ムスリム人」としか呼びようのない人びとの地位は、「事実上の民族」から「法制上の民族」に上昇した。