きっかけ
ここ最近の読書によって、オスマン帝国がバルカン半島も支配領域に収めていたことを知りました。バルカン半島といえば、20世紀に「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたり、1990年代にはユーゴスラヴィア紛争で大変なことになりました。しかし、内情があまりにも複雑なため、「大変なことになった」という薄っぺらな言葉でしか私は表現することができません。そこで、オスマン帝国末期から1990年代までのバルカンの歴史を説明できるようになりたいと思い、薄い本だからなんとかついていけるのではないかとの淡い期待をもって本書を購入しました。
著者は?
- 柴宜弘
- 1946年東京都生まれ。
- 埼玉大学教養学部卒業。早稲田大学大学院文学研究科西洋史学博士課程修了。1975~77年、ベオグラード大学哲学部歴史学科留学。敬愛大学経済学部助教授、東京大学教養学部・大学院総合文化研究科教授を経て、城西国際大学特任教授、東京大学名誉教授、ECPD(国連平和大学)客員教授。
- 専攻はバルカン史。
どんな本?
- 「民族の悲劇」はなぜ、バルカンで生じるのであろうか。凄惨なボスニア内戦を見るにつけ、だれしもが感じた疑問であろう。バルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と称さて以来、「紛争地域」「危険地域」とのイメージがつきまっている。バルカンの民族主義を近現代史のなかで検討し、この地域の諸民族の対立の背景を探ると同時に、諸民族が協力しようと模索した側面にも光を当てて、民族主義からの脱却の展望を考える。
感想
メモ
- バルカンの総面積は75万㎢で、日本の面積の約2倍。
- バルカンという呼び名は、山脈を意味するトルコ語に由来している。
- バルカンは極めて多様でありながら、地域としてのまとまりを強く備えている。
- バルカン地域は等しく中世においてビザンツ世界に組み込まれ、その影響を強く受けた。また、近代においては、オスマン帝国の支配下におかれていたという共通体験をもつ地域である。
- 18世紀にはいると、アーヤーンと呼ばれる地方の名士が徴税請負権を独占した。
- 19世紀初頭に展開されたセルビア蜂起は、弛緩したオスマン統治のなかで生まれ、中央の統制のきかない「悪いトルコ人」に対して、旧来の秩序の回復をスルタンに求める動機から生じた。反乱の過程で、これがオスマン帝国にたいする民族的な反乱に転化したのである。